原典

満洲農業移民の現況

発行・掲載拓務省拓務局
著者・発言者拓務省拓務局 編
発行日1937-02
取得日2026年10月27日
URLhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1441969
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コマ7満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数… 脚注1
「第一次移民五百名を昭和七年十月三江省樺川縣永豐鎮に」
コマ8満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数… 脚注2
「四囘に亘る千八百名が所謂試驗移民である」
満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数… 脚注4
「昭和十一年度に於て第五次集團移民として全國より一千戶の送出を行ひ」
満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数… 脚注27
「永安屯(三百名)、朝陽屯(三百名)黑台(二百名)、信濃村(二百名)」
コマ9満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数… 脚注10
「昭和十二年度以降五箇年間に十萬戶を送出する事に確定」

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コマ1

満州農業務民の現況拓務省柘務局編0025000000 0025000-000 715-181満洲農業移民の現況拓務省拓務局·編拓務省拓務局昭和12年2月昭12 ADE

コマ2

昭和十二年二月拓滿洲農業移民の現況務省拓務局

コマ3

(テキストなし)

コマ4

圖植入民移業農洲滿河実龍安省北扇拉港三安北*濱屯蘭札江省原ンヤシルアンロハ通三·四省時子安五製作專安洮南間通新京南安慧省郭家电省平朝遼西上省錦天省安勢式州南朝河省西鮮例府首地在所署公省市都國省思果112元起線地面泉民移地定豫植入火六第凡營b壹省

コマ5

滿洲農業移民の現況目次一、總說715 181二、移民に對する政府の補助並保護施設政府の補助保護施設團の構成移民團の組織移民國の諸施設移民團建設の順序三四、營農方針五、農業移民團の經濟

コマ6

六、募集並訓諫七、移住地の〓況八、宿舍關係九農耕狀況一〇、畜產狀況一一、民間指導奬勵機關三、結言一九二七〓三九四五四八の九滿洲農業移民の現況一、總說滿洲事變を契機として滿洲に對する國民の關心は異常の緊張を示すに至つたが、滿蒙の我が生命線を永遠に安素ならしむる爲の具體的方策の一として移民送出の重要なることも亦强く一般國民に認識せらるゝに至つたのである。卽ち滿洲移民が現下の重要事項たる我對満政策の基調をなすものであつて、日滿兩國一體不可分の關係と滿洲國建國の精神たる五族協和の實を擧げて、東洋平和の確立と世界人類の福祉增進とに貢献せんとする崇高且僅大なる使命を有するものであることは、旣に一般國民の齊しく認むる處であつて今更贅言を要しないのである。滿洲建國以來玆に六年、今や日滿兩國同昌共榮の本義は著々顯現せられ、彼我互に融和提携して王道樂土の建設に邁進しつゝある現狀であるが、此の兩國の不可分關係を益々强化して其の一體性を永遠ならしむるの途は、今後速かに多數の優良なる我が國民を滿洲に

コマ7 引用あり

送り滿洲國に於ける邦人人口の增加を圖るの只一つあるのみである。之に依つて滿洲國の產業開發に資すると共に、其の文化の向上、國防の充實に對しても多大の貢献を爲し得べく、他面我が社會不安の根源たる人口と資源との不均衡を調整する一方策として、殊に我が窮乏農村匡救の一助とし千て最も有效適切なるものと謂ひ得るのである。寔に事變直後に於ける國民の滿洲移民熱は燎原の火勢に振も似て各方面で盛んに論議せられた。然し此等の論議乃至神移民熱も之を仔細に點檢して見る時は從前の滿洲移民に對社し根本的障碍と目された舊東北政權の崩壞に伴ひ容易に卽行し得るが如き謬見に立脚した者も少くなかつた。勿論舊東北政權の崩壞と之に替はる新國家の出現とは內地人の滿洲移民問題を著しく好轉せしめた事は事實であるが、或は新國家の出現に依つて移住に必要なる土地其他の無償交付を受け得べし等の誤解を敢てせる者も尠くなく、一面又過去に於ける諸實績に囚はれ依然として滿洲農業移民不可能なりとの悲觀說を墨守する者もあつ千振神社で是非の論喧しく全く混沌たるものがあつた。此の間に處して拓務省は輕卒なる移民熱を抑制するの要を認め各地方廳にも通牒を發して充分なる調査〓究に基かずして輕々に渡滿する者を戒むる傍ら、昭和七年初頭、滿洲移民計畫の大綱を草案し將來の滿洲農業移民問題に對する方針を明かにし尙又朝野各關係方面の意嚮を參酌する爲斯界の學者並實際家等を會してその根本方策に關し懇談を遂ぐる處があつた。該移民計畫の大綱としては、第一に滿洲農業移民の特殊性に鑑み相當多數の者を移住せしむる要あり、尙一戶當の割當面積は自家勞力を本位として耕作し且つ經濟的に成立し得る程度を目標として自作農を設立すること、第二には滿洲農業移民には入植前內地又は現地に於て特殊の訓練を施すこと、第三には內地農村の窮狀より見て相當程度の補助金を政府より支出すること、第四に農村の靑壯年中身體强健、思想堅實なる者を選ぶこと、第五には第一期計畫として十年間に十萬戶を送ること等であつた。斯くて昭和七年以降引續き移住に必要なる諸調査、諸準備を行ふと同時に、第一次移民五百名を昭和七年十月三江省樺川縣永豐鎮に、次で翌八年第二次五百名を其の隣縣依蘭縣

コマ8 引用あり

湖南管に入植せしめた、翌九年度にも同じく五百名を送出する豫定であつたが此間勃發せる所謂土龍山事件により第一次、第二次移民團が豫想外の災害を受けた爲經費の一部を之が損害補塡費に充て第三次としては、三百名を濱江省綏稜縣に入植せしめた、次で第四次移民五百名は十年度に於て濱江省密山縣內の城子河(三百戶)哈達河(二百戶)の二族家の民移るな朗團に分れて夫々入植した。以上四囘に亘る千八百名が所謂試驗移民である、而して其の第一次及第二次移民團が入植當初不測の障害に遭遇し業績豫期の如く進展せざるを見て當時一部には其の將來に付一抹の疑惑を抱く者もあつた樣であるが、併しそれは全くの杞憂であつて何れも豫期以上の成績を收め滿洲移民の可能なることを實證して居る。卽ち滿洲の氣候風土の自然條件及衣食住等の生活條件の相違が我が移民に對し毫も支障を及ぼさゞる事は前記試驗移民の實績に徵して明かなる處であるが、加ふるに過去多年欝窟せる政治的壓迫の解消すると共に諸般の經濟制度確立に依族家の民移るな朗つて滿洲國經濟界も漸く安定するに至つた今日、殊に周密なる計畫に依つて之を指導し、熱誠なる國家的後援に依つて之を支援するに於て、質實剛健にして刻苦勤勉なる我が農業移民の成功は正に期して待つべきものがある。拓務省に於ては之等試驗移民の實績に徴し將來に於ける成功の確信を得たので試驗移民は昨年度を以て打隊遺先國民移河子城るせ著到に地現切り、從來の方式に取捨選擇を加へて集團移民計畫を樹立し、昭和十一年度に於て第五次集團移民として全國より一千戶の送出を行ひ之を第四次の東方接續地たる濱江省密山縣永安屯(三百名)、朝陽屯(三百名)黑台(二百名)、信濃村(二百名)の各地區に入植せしむることゝし旣に其の先遣隊は昨年七月入植を終り本隊は來る二、三月の交入植の豫定である。斯くして大量移民案に對しては其後引續き種々〓究討議せられ、遂に先般閣議に於て大量移民案は重要國隊遺先國民移河子城るせ著到に地現

コマ9 引用あり

と見て其際日本人が少くも其の一割卽ち五百萬人を占むるを目的として一家族五人として策の一として決定せらるゝに至つたのである。百萬戶を要するの理に依つたものである。案の〓要は現在滿洲國の人口は約三千萬人なるも二十年前後には五千萬人に增加するものした、加を豫想せらるゝのである。第一期計畫としては左表の通り昭和十二年度以降五箇年間に十萬戶を送出する事に確定目下拓務省に於ては二十箇年百萬戶移住計畫を立案し之が細目に付講究中であるが、而して右は最少限を示せるもので諸般の情勢並に實績に依り各年度の送出戶數の增滿洲移民送出年次表本昭昭昭昭昭年(註)民等を此種移民として取扱ふ方針である。るものに對し補助金を交付することゝする。(政府の補助の項參照)而して政府は自由移民に關しては積極的に送出をなさず責任者より計畫提出を俟ち審査の結果適當と認めたす)又は統制ある組織の下に送出せらるべき商業徒弟其の他の勞務者移民を謂ふ。其他の移民とは農業移民の不足勞力補給の目的を以て呼寄せらるべき農業勞働者地に入植して獨立農となる緣故者移民及滿洲實業部實施の林業移民、農業自由移民とは既設の農業集團移民村の周圍に入植して之と共に移住村を形成し又は交通並市場關係に特「自由移民」は之を分ちて農業自由移民と其他の移民の二種とする。する、民に重點を置き渡航費の外個人、並一般文化施設は〓設機關を利用せしむることとし爲に之を施設せざるを本則とする。に惠まれた特殊地域に入植して特用作物若くは蔬菜の栽培、の餘祐を置くは勿論農村に必要なる經濟的機關を設立するの外社會的並文化的施設も定備せしむるを原則とむる目的を以て少くも二百戶乃至三百戶の構成員を以て集團移住を爲さしむるもので從つて移住地には充分「農業集團移民」とは將來其の周圍に招致せらるゝ自由移民其他と共に形成せらるべき移住村の中心たらし斯くの如く農業集團移民は各種移民の根幹をなすものであつて政府の行ふ移民助成も此の農業集團移產業及公共施設に對して夫々補助をなすのである。(政府の補助の項參照)乳牛の飼養等の集約的經營に當る者を謂ひ產業要すれば鐵路總局實施の鐵路自警村移(主として未成年者を豫想差當りては旣設移住和和和和和計十十十十十六五四三二年年年年年次度度度度度農業集團七〇、〇〇〇二〇、〇〇〇二〇、〇〇〇一五、〇〇一〇、〇〇五、〇〇移民O 0戸移自由三〇、〇〇一〇、〇〇〇八、〇〇〇O移六、〇〇〇五、〇〇〇一、〇〇〇戸民七六計一〇〇、〇〇〇三〇、〇〇〇二八、〇〇〇二一、〇〇一五、〇〇〇六、〇〇○戸

コマ10

ニ、移民に對する政府の補助並保護施設(一)政府の補助(イ)集團移民に對する補助政府の集團移民に對する補助は戶別補助と公共施設補助に分れて居る。卽ち渡航費を補助するの外開田費、重要造營物、農具、家畜及共同產業施設等營農に必要なる固定資本の約三分の一に相當する金額を各戶に補助するの外組合事務所費及衞生獸醫費に付移民團の組合に對し補助するものであり兩者合計一戶當一千圓となる。之を表示すれば左の通りである。·戶別補助渡航費家族二人を標準とす本人一六〇圓八〇圓個人施設補助六〇〇圓療診の師醫國民移次一第一六〇圓八〇圓六〇〇圓共同產業施設補助計公共施設補助(三百戶一組合の場合)組合事務所建物費診療所其他建物費醫療費醫師其他給與醫師其他赴任旅費雜費五〇圓八九〇圓組合事務所建物費三、〇〇〇圓診療所其他建物費五、〇〇〇圓醫療費六、四〇〇圓(三ヶ年分合計)醫師其他給與一七、〇〇〇圓同)醫師其他赴任旅費七〇〇圓雜費九〇〇圓計三三、〇〇〇圓(一戶當一一〇圓)合計一、〇〇〇圓(ロ)自由移民に對する補助農業自由移民に對しては渡航費を含め一戶當五〇〇圓、として一人當八十圓(十四歲未滿は半額)を補助する。(二)保護施設(イ)指導員の設置農業移民に對しては一集團毎に拓務省派遣の指導員を配屬することになつて居る、(三ヶ年分合計)同)計合其の他の移民に對しては渡航費其の

コマ11

主席農事指導員は他の指導員の協力を得て農事に關する誘抜指導に任するの外移住地全體の經營指導並に統制に當り所謂〓長である。(ロ)衞生、〓育施設拓務省より各移民團に醫師を派遣して無料診療所兼病院を設置して移住者の治療診斷に當らせて居る。〓育に關しては、小學校の施設並經常費は移民團に於て所定の居留民會を設立すれば外務省の在外指定學校となつて助成せらるゝことになつて居る。(ハ)其他滿洲拓植株式會社をして必要なる土地並に基礎的施設及資金融通をなさしむ、而して土地に付ては移住地の狀況により多少異なるも一戶に付凡そ十町步を標準とする、其外に放牧、採草地に充てる爲略同面積のものを適宜附加することになつて居るがこれは各自に分割することなく村又は校學小振千地住移次二第部落の共有地として共同的に利用管理するものである。三、移民團の構成(一)移民團の組織移民團は普通三〇戶を以て一部落とし十部落を以て一村を構成するを標準とする、て一戶當耕地約十町步其他放牧採草地等の共有地も相當あるから一村の地域は可成の廣範圍となり其の中に各聚落が點在することゝなる。移民村の組織は滿洲國の地方自治に準じ移民團自身の自治的規約に委ねられ、自治、警備、〓育、衞生等諸般の行政が團長中心の合議制に依り運營せられる。經濟方面に於ては組合を設けて共同產業施設、生產物の共同販賣、必需品の共同購入等の事業が矢張り團長中心に經營せられ、各團配屬の農事、畜產、警備指導員が之を補而し千振本願寺

コマ12

佐することになつて居る。(二)移民團の諸施設(イ)產業施設最初は精米、製粉、味噌、醬油の釀造若くは豆粕の製造等食糧若くは飼料を補給する程度のものに過ぎないが、漸次建設作業の進むに從ひ窯業工場、鍛工場、蹄鐵工場、木工場、建築場、自動車部、倉庫等を設け、或は消費部及び共濟部を設置する等諸種の施設が完備して行く。更に將來は生產物の販賣部、農具其他の利用部、日用品其他營農資料の購買部、或は金融の便を圖る信用部等內地の組合組織も順次其の範を採つて發達して行くことゝ思ふ。(ロ神社並寺院各移民團の自らなる報本反始の念慮より各村の高地に神社が建立せられ信仰の中心、團結の核心となつて居る、第一次の神社を彌榮神社、第二次の神社を千振神社と稱して居る。寺院も第一次には旣に建立せらるゝに至つた。(ハ)學校家族の招致が進むに從ひ就學兒童が增加して來るので各村に非公式に小學校を開設し團長が校長を兼ね〓員若くは其の家族にして〓員免狀を有する者が〓鞭を執り、兒童は寄宿舍に收容せられて元氣に學校生活並に寄宿生活を樂しんで居る。而して各學校は近き將來に於て正式に認可せられ秩序立つた〓育が行はるゝことになつて居る。(ニ)衞生設備醫療衞生設備としては組合病院を設立し、右資格の醫師を配置し團員の無料診察投藥を行つて居る。團員の增加に伴ひ藥劑師及看護婦も設置する豫定である、尙產婆は各移民團中に數名宛免許狀所有者が居るので不自由を感じない。保健衞生の方面に付ても井水の消毒、豫防接達親母の中觀參業授種等を實施して萬全を期して居る。(ホ)警備各團に警備指導員を設け主として豫備役將校を以て之に充て警備の主任に當らしむるの外、移民團には自衞手段を講じて居るが、匪害は逐年激減しつゝある狀況である。達親母の中觀參業授(三)移民團建設の順序(イ)第一年目には移民團全體の共同經濟とし農產加工施設の一部、〓育醫療機關を作る、個人家屋三分の一は移住前滿洲拓植株式會社の手によら完成せしむるも尙之が建築をも手傳ふ一方開墾に努める。

コマ13

(ロ)第二年目は各部落單位の經濟に移り個人家屋も全部出來上り全部家族を招致し得る事となり農產加工施設の增設、種畜場等の施設が行はれる。羊(ハ)第三年目は土地を各移住者に分配し經濟は個人の經濟に入つて各自は獨立する事となる。(ニ)第四年目以後は各自の農耕擴大充實に努め、產放業並經濟其他各種の共同組合事業を次第に擴大强化す牧る。右の如く移住者は年一年生活を充實せしめ家族を招致して安意豐富なる生活をなし得ると一方自家勞力を充實し得ることゝなるが家族の招致は大體本隊入植の殘りは其の年の秋遲くも第二年の中に全部招致し得ることゝなる。羊の放牧際三分の一、四、營農方針(一)畑作を主とし之に一部水田作を取入れると共に家畜飼養を加へたる混同經營をなすものである。之は廣大なる土地の耕作、金肥に依らぬ地力の維持、農業の多角形經營等の點から見て當然の方針である。(二)農家一戶當面積は土地の狀況により異るも凡そ耕地十町步とし內水田一、二町步を取入れる樣な方針にして居る。(三)役畜及用畜として牛馬豚各一頭及緬羊五頭を飼養することゝする。(四)放牧地、採草地は之を適當に利用し又副業の爲牛にも用ひる外一層收入增加を圖る爲に共同經營の利益を擧げて行く樣に指導する。乳(五)農耕は飽く迄自作農であるが自家勞力に依る自給自足を原則とする、從つて初めは安全なる在來作物を栽培するが將來は特用作物にも相當力を用ふることゝする。二町步を牛乳

コマ14

五、農業移民團の經濟(一)營農計畫の〓要(イ)農家一戶當耕地十町步の分讓を受け内水田一町步、畑地九町步とし其他共有の放牧地、採草地として適宜若干を附加することゝする。(ロ)開墾並耕作水田の開設は畑四町五反步を滿拓の手で入植前に開墾し其他は移民自ら順次開墾することゝし入植後二年目に開墾を完了し三年目より全耕地に作付するを原則とするが、自給作物の確保、事業の安全、收益、邦人農家の技能等を考慮し主作物として水稻、大豆、小麥を耕地の約三分の二に作付し之に他の殻菽、特用作物及蔬菜等を適當に鹽梅して作付する。(ハ)牧畜牛馬各一頭を購入し役畜とする一方蕃殖を計り、在來種牝豚に「バークシャ」種を交配蕃殖せしめ逐次賣却する。緬羊は在來種牝を購入「メリノー」種又は「コリデール」種を交配蕃殖せしめ牝三十頭に達する迄保有飼育し牡及餘剩は賣却する、此の家畜の飼養は穀作により生ずる皺、糠、穀稈等を利用すると共に、堆肥の製造に依畑地九町步とし其他共有の放牧て地力の維持を計る點にも意義がある。(ニ)副業移民は夫々入植地の狀況に應じ主として冬期間に伐木、運材、製材、薪炭製造席子、ホームスパン、柳條子細工、粉條子製造、或は馬車、トラツク輸造等に從事し副業收入を擧ぐることに努める。(ホ)農家の勞力、人力入植當初は多少の雇傭勞力場畜種村馬群鎭豊永を必要とするも漸次家族數の增加に伴ひ自家勞力のみを以てする。畜力滿洲に於ける所要畜力は耕地六町歩に馬一頭又は五町步に牛一頭であるが開墾運搬等にも使役するので入植當初より牛馬各一頭を必要とする。(ヘ)農家の衣食住自給自足を原則とし現金による購入は最少限度に止める。防寒具には成る可く自家生產羊毛等を利用する。食料は自給自足を原則とし主食は一日一人當白米二合、精運材、製材、薪炭製場畜種村馬群鎭豊永

コマ15

粟二合、小麥粉七〇匁、副食は蔬菜、味噌、醬油、大豆油(自家生產)食鹽、鹽乾魚、海藻(購入)等で漁、獵、養蜂、甜菜栽培に依つて更に自給の範圍が廣め得られる。住屋は腰煉瓦砒子造、浪型亞鉛引鐵板葺建坪十五坪とし採暖は溫突に依る。(二)收支豫算(イ)收入自家消費量を控除したる穀物、畜產物販賣收入及副業收入は移住地の完成を見る五、六年度に至り八〇〇圓乃至八五〇圓になる。(ロ)支出種畜、飼料、肥料、勞銀、諸組合費、租稅公課、警備費等の營農支出、衣食住の費用並〓育、衞生費等の家計費及償却費等の支出は六年度以降約四八八圓に達する。(ハ)差引損益初、二年度には損失となるも三年度より漸次益金を增加し六年度以後は三五〇圓內外の利益を擧げ得ることゝなる。(三)所要資金と其の調達並償還(イ)所要資金固定資金として大略、土地代二五〇圓、開田費及開墾費二九〇圓、住居附屬農舍、井戶圍壁築造費七五五圓、馬車、農具等二四〇圓、家畜購入費二二五圓、共同產業施設費一〇〇圓、する。合計一、八六〇圓を要する外流通資金として七〇〇圓を要(ロ)資金調達所要固定資金の約三分の一の六五〇圓は政府より補助、殘額一、九一〇圓は滿洲拓植株式會社より融通を受ける。(ハ)借入金償還借入金利率は年五分とし、固定資金は五箇年据置後二十五箇年均等年賦償還により、流通資金は五箇年据置後十箇年均等年賦償還に依る。(四)協同組合組織移民農家經濟の合理化を圖る爲各團に於ては生產物の販賣、農畜產加工精製設備及農具の共同利用、日用品の購買或は金融等に付各協同組合を組織し豊產加工場其の運營の全きを期して居る。六、募集並訓練

コマ16

滿洲農業移民の募集要綱は年により多少の更改を見た。卽ち第一次移民の募集區域は靑森、秋田、岩手、福島、宮城、山形、群馬、栃木、茨城、長野及新潟の東日本十一縣の在〓軍人中の多數希望者中から約五百名を選拔したのであるが、第二次移民の場合には第一次の募集區域の外、更に東京、千葉、埼玉、山梨、神奈川、富山、石川、福井の各府縣を加へて一府十八縣の在〓軍人中より矢張り五百名を選拔した。第三次移民は山形、福島、宮城、長野、山梨、新潟、岐阜、鳥取、高知、廣島、山口、福岡、佐賀、熊本及鹿兒島の十六縣下から二百五十名を選拔して本隊とし殘餘の五十名は文部省の第一及第二拓殖訓練所並日本國民國等學校の修了生を以て先遣隊とした。第四次並第五次移民は汎く全國から募集したが北海道並沖繩縣は除外した。之は一つは道府縣の拓植計畫と他は地理的並氣候的要因を考慮したのである。第三次移民以降の募集で第一次及第二次移民との著しい相違は必しも旣〓育在郷軍人でなくとも差支へないことゝ供託金三十圓宛を預託すること等である。前者にあつては當時の移住地の狀況が明治の初年から中葉にかけて實施せられた我が北海道の屯田兵制度に倣ふの必要があつたからであるが、第三次移民以降では移住地の治安狀況も漸次好轉し全員必しも旣〓育在〓軍人である必要もなくなつたからで移民選定の結果は約三分の一が未〓育者中から採用せられた。又後者については入植當初は一文の金錢收入もないので各種の止むを得ざる經費に充當するが爲預託するのである。昭和十二年度よりは所謂二十箇年百萬戶五百萬人移民案の第一年度であり其の第一期計畫として十二年度より五箇る於に校學等高民國本日年間に十萬戶を送出する事に決定し此の中移民の中軸をなす集團移民は七萬戶を送出すことゝなり先づ昭和十三年度には五千戶、次で十三年度には一萬戶を送り出すことゝなつた。昭和十二年度卽ち第六次の先遣隊は旣に募集濟、此處に第七次移民の先遣隊二千名を各府縣から募集し昭和十況狀練訓け二年五、六月頃渡滿せしむることゝなつた。次に移民の募集訓練は、前述の如く年によつて多少變更があつたが、今後は大體左の方針による。滿洲集團農業移民募集訓練要綱る於に校學等高民國本日況狀練訓け

コマ17

一、一、本隊及先遣隊集團農業移民は本隊と先遣隊とに分れて渡滿するのであつて、先遣隊は移住地建設を促進し、その經營を容易ならしめるため、本隊より二年位前に渡滿し、約一ヶ年現地で訓練を受け、移住地に入つて本隊の入植準備をする。二、募集イ、地域北海道、沖繩を除く各府縣。口、人員前揭滿洲移民送出年次表(六頁)參照。其內先遣隊員數はその約二割。ハ、機關當該府縣。但帝國在〓軍人會各團體、農會、海外協會等の協力を受く。二、申込現住地の市町村役場。三、應募資格イ、年令本隊應募者は徴兵檢査を終つた三十五歲位までの者がよい。しかし特技を有する者で特に適當と認めらるる場合は四十歲位でもよい。先遣隊は徵兵檢査を終了した三十歲位までならよいが、最も適してゐるのは二十五、六歲位で家庭係累の少ない獨身者である。しかし特技を有口職業現に農耕に從事してゐるか、又は農耕に充分經驗のある者。但し農村に住んでゐて、移住地の建設並に經營に必要なる特技(例へば大工、左官、蹄鐵工、鍛冶工自動車運轉手、產業組合從業員等)を有する者でも宜しい。ハ、健康身體强壯で、呼吸器病、神經系疾患、痔疾、脚氣等の疾患のない者。四、家庭關係其他イ、獨身者、旣婚者いずれでもよいが、旣婚者は家族を招致し得るまで、一、二年間單獨の生活が出來、後に殘つた家族の心配のないこと。口、渡滿後〓里に送金の必要のないこと。ハ、渡滿の際供託金參拾圓の準備をなすこと。五、銓衡並訓練イ、第一次銓衡各府縣に於ては管內の應募者を集め、人物考査並に身體檢査を行ひ、移民候補者として適當と認めた者の中から假採用者を決定し、身上明細書及戶籍謄本各二通を拓務省に提出すると同時に本人に對しても假採用の通知を發する。但し農村に住ん蹄鐵工、鍛冶工

コマ18

口、口、內地訓練各府縣農民道場其他適當の所で約一ケ月間訓練する。隊本國民移るせ船乘てに賀敦ハ、第二次銓衡訓練中の成績により拓務省で銓衡の上正式採用を決定し、府縣を經由して本人に通知する。ニ、渡滿訓練終了後一旦歸〓せしめ採用せられた者は準備の上、一定の時期に乘船地に集合の上渡滿せしめる豫定である。ホ、先遣隊の現地訓練本隊は渡滿後直ちに移住地に入るが、先遣隊はハルピンの現地訓練所又は、既設の移民團で訓練を經た上、各移住地に入植せしめる。渡滿、入植隊本國民移るせ船乘てに賀敦ハ、既設の六、イ、渡滿と準備左式に採用された者には渡滿の約一ケ月前に府縣から渡滿期日、集合場所、携行品、服裝等に關する通知がある。出發港には出身縣より夫々新潟、敦賀、門司等に集合、大體朝鮮北東海岸の〓津に上陸、鐵道で圖們、牡丹江等を經て、移住地又は訓練所に入る。口、入植豫定地北滿の濱江省、三江省、其他。ハ、先遣隊の入植現地訓練を終つた先遣隊は、渡滿の翌年夫々各移住地に五、六十名宛入植し一年間本隊入植に必要な諸建設作業をなし、本隊入植の場合直ちに耕作を開始し得る樣に準備する。ニ、先遣隊の任務宿舍、井戶、炊事場、浴場、倉庫、畜舍等の準備又は改修。蔬菜等の栽培、食料、薪炭、木材の收集貯藏。耕作第一年度の計畫樹立等。ホ、先遣隊に對する手當渡滿後現地訓練中及本隊入植までの間は食費及被服費手當として、月七圓宛を支給する。右の募集要綱中假採用者に對する所定の訓練は移民の共同生活に對する準備と渡滿後に浴場、倉庫、畜舍等の準備又は改修。蔬菜等

コマ19

必要なる精神的鍛練とを主なる目的とするので、期間は約一箇月に亘りて國民高等學校、縣府の農民道場其他農學校等滴當なる機關に委囑して實施する。訓練課目は講師其他の都合に依り各訓練所一律に實施することは困難であるが、今第三、四次移民團の訓練課目を擧げれば大體左の通りである。修身皇國精神と滿洲農業移民の本義二〇時農學滿洲農業の本質及農產加工二五時體操皇國運動一〇時武道眞心影流の型、銃劍術一〇時〓練自衞動作の演練を主とし分隊〓練中隊〓練一五時食糧〓究滿洲料理の根本〓念五時實習農業勤勞精神の鍛練八五時(開墾、鍛工、製炭、其他農料)課外講議日本精神其他實彈射擊行軍二日二〇時二五時一〇時一〇時一五時五時八五時其他農料)二日尙訓練の爲假採用者の入所に要する旅費は次の通り取扱はれる。現住所より訓練所迄の旅費(汽車、汽船賃は三等實費)又交通不便の爲止むを得ず途中車馬及宿泊を要するものは市町村長の證明あるものに限り車馬賃(實費)宿泊料(實費一圓五十錢以内)は一時各自立替支辨し置き(但し鐵道乘車驛諸會社驛、或は旅館等の受領證を受くるものとす)入所後訓練所に請求するものとす。附記滿洲自由移民の送出については、前揭滿洲移民送出年次表(六頁)及その註自由移民の項を參照のこと。前揭滿洲移民送出年次表(六頁)及その註自由移民の項を參照のこと。七、移住地の〓况第一次移民は昭和七年三江省樺川縣永豐鎭に四九三戶、第二次同八年三江省依蘭縣湖南營に四九四戶、第三次同九年濱江省綏稜縣に二九八戶、第四次同十年濱江省密山縣城子河に三〇〇戶、同哈達河に二〇〇戶計五〇〇戶、總計一、七八五戶を夫々送り出したのである。其後種々の原因によつて退團の己むなきに至つた者約三〇〇、其他病死、戰死者等も

コマ20

多少出し現在一四一〇戶計を殘すが、何れにせよ約八〇%の殘留步合を示すことは移民史上稀に見る好成績と謂はねばならぬ。昭和九年頃から家族招致が始まり第旣に千名以上の家族渡航者があり、又移民地で呱々の三聲を擧げた赤ン坊が二百名にも及ぶ盛況であり、移住次者全體では二千七百名位に達するのである。此の中に開は古稀を越へた老媼や古稀に近い老爺も交つて居る田が、異〓の風土にめげもせず能く鑁鑠として農料の手工事傳や孫の世話をやつて居る。斯くの如く最愛の妻子や兩親を呼び寄せる事は確かに移民の落付を示せるものであり、移民成功の一證左となるものと謂ひ得るのである。左に各移住地の狀況を〓述するこゝとする。(一)第一次永豐鎭地區松花江下流佳木斯の町の南方十四里に位し東、南及北の三方に丘陵性の山岳を周らし中央部は盆地狀をなして居る。その東方七辰〓子山に源を發する南第三次開田工事柳樹河は地區の中央部を東より西に流れ永豐鎭部落の西端に於て鐵嶺河を併せ南折して小八虎力河に注いで居る。この河水を利用して中央部の低濕地竝地區の西部には水田を開設することが出來る。附近一帶の表土は腐植に富む埴土で地味は肥沃であり各種の作物が栽。培出來る。地區の推定面積は四萬町步でその中可耕地は五千町步を超える見込である。之の土地は全部既商租地である。不可耕地の大部分は山林で樹種はヤマナラシ、テリドロ、カシハ、シラカバ等の濶葉樹から成つて居て薪炭用材としては充分に利用することが出來るから、滿洲の樣に冬が長くて多量の燃料を要する所では非常に惠まれた地方である。緯度は北緯四十六度であるが、北滿に於ける大陸的氣候の常として四月の解氷期以後には氣溫は急に目立つて上昇し五月から八月に至る作物の成育期間は北海道、樺太の同緯度:地方に比較すると遙かに高溫で日照時數も遙かに長いので農作物は頓に成育する。其の月々平均氣溫を見ると八月の十八度を最高とし七月も十八度六月は十七度で五月と九月は夫々十二度及十一度である。昭和九年度中での最高溫度は三十一度最低溫度は零下三十七度であつた。然しこの地方の冬期の氣象の常として必ず三寒四溫が反覆せられるから老も幼も馴れゝば案外住み易い

コマ21

所だと言つて居る。降水量は年五百六十粍內外であるが六、七、八の三ヶ月にその大部分が降つて了ふ。この永豐鎭彌移民團の本部(彌榮村役場竝共勵組合の所在地)は移住地館旅營村の村榮の西端永豐鎭部落に置かれて居る。永豐鎮は孟家崗とも言ふ、移民の入植前は戶數約百戶內外の滿人部落で部落民は主として附近から伐り出される木材と砂金掘りで生計を樹てゝ居たが、滿洲事變後一時匪賊に占據せられ住民の大部分は佳木斯、三姓或は遠く哈爾濱邊りまで難を避けて殆ど荒廢に瀕して居た。昭和八年二月十二日移民團の先發隊がこゝへ乘込んで匪賊を追つ拂ひ移民團の爲に治安が維持せられる樣になると漸次住民も復歸して再び繁榮に赴いたのである。現在では滿人、鮮人を合して百四、五十戶の住民が居るが、商店といふものは殆どなく僅かに滿鮮人相手の農具を商つたり或は簡單な飮食店が二、三あるに過ぎぬ。然し移民團に於ては茲に移民團の活動の中心たる村役場、共勵組合、小學校、病院、其他の產業施設を設置し、又圖佳線の停車場も設置せられたので將來の發彌館旅營村の村榮展が豫想される。入植當初は夏は松花江の舟運により冬期は自動車で哈爾濱と交通する以外に方法なく、又移住地から佳木斯市街へ往復するにも一旦降雨があると道路は全く泥海と化し車による交通は殆ど停止せられるの狀況であつたが、昨年中に圖佳線が開通し部落の中を汽車が走る樣になり誠に今昔の感に堪へない次第である。(二)第二次湖南營地區湖南營地區は第一次永豐鎭の西南方約八里に位し、緯度に於ては第一次移民團の永豐鎭地區と大差ないが高度に於て約五十米內外低いのと、更に永豐鎭の盆地狀をなすに反し四方開濶なる地勢であるが爲、其の無霜期間は永豐鎭に比べると十日內外長く約百四十日である。その他の點に就いては永豐鎭と大體同じである。地區の面積は約一萬七千餘晌(一晌は我が七反二畝に當る)で既に全部買收濟みである。此の地區は比較的に開墾がよく進捗してゐるが爲地區內の先住者たる滿人の數も多く、所謂內滿雜居の姿を呈し、永豐鎭地區の如く地區內に一人の滿人も居住して居ないのと好個の對照をなしてゐる。本部のある湖南營は今から約三十年前、支那湖南省より移住して來た移民によつてつく支那湖南省より移住して來た移民によつてつく

コマ22

られた街であつて沿革は餘り古くは無い。現在移民團と滿人の共同經營になる農產加工場の前身燒鍋公司が最初の移住者だと云ふことである。位置は三江省依蘭の東方約廿邦里、佳木斯の東南二十二邦里の地點にあつて、松花江の支流八虎力、七虎力兩河にはさまれた地味豐沃な所謂湖南營平野の中心に位してゐる。此點第一次移民團の永豐鎭とは異つてゐる。昭和九年三月第二次移民團がこゝを根據地と定めるまで設架話電の地住移はまことに寂しい一寒村に過ぎなかつたのであるが、移民團が入植してより異常な發展をした。街は長さ七百米、幅三百米の長方形をなし、現在は人口滿人約六百戶、鮮人二百戶餘りを有し、街中には満人商店、警察署及稅捐等煉瓦建の建物が軒をならべてゐる。滿人商店にて賣買される商品の大部分も日本製品で、內地農村には見當らぬものさへ整つて居る有樣である。又移民團の植へた白楊の街路樹も茂り、夜になると街燈までつく。市街の三分の一は第二次移民團の所有土地となり、移民團はこゝに團本部設架話電の地住移を置き、それを中心に小學校、病院、消費組合、木工、鍜工、蹄鐵の各工場及び農產加工場が活動して、約五十戶の團員家族が住むでゐる。團本部指導のもとに、益々街の行政、治安は整備確保された結果、附近農村の住民は安住の地を此處に求め、昨年は滿人家屋も千間房以上新築されたとのことである。前記の圖佳線が本地區を通過することになつて移住地區內に停車場の建物も既に建設され、湖南營平原の農產物は勿論遠く依蘭平野の生產物も茲に集まり又内地竝南滿からの輸移入品の經路ともなつて湖南營の發展は刮目すべきものがあらう。(三)第三次綏校地區本地區は哈爾濱の北方濱北線克音河驛の東南約六里にある綏稜縣城の東北方約二里の地點に位置し、自動車で克音河驛から約一時間半で達し得られる。北緯四十七度十七分に位し、地形は小興安嶺の支脉大靑山山脉から西方に波及した波狀丘陵地帶の一部を占め平均高度は二七〇米內外で地區の北端には弩敏河が西南に向つて流れて居る。其の平均氣溫は七月の二十二度を最高とし八月は十九度六月は十八度五月と九月は各十三度及十二度であつて、最低は一月の零下二十一度である。無霜期間は百三、四十日であ

コマ23

る。降水量は五百粍內外でやはり六、七、八の三ヶ月に其の大部分が降つて了ふ。商租面積は一萬九千八百町步で其の中不可耕地は低濕部の千町步內外に過ぎない。土質は所謂北滿の穀倉地帶と稱せられる「滿洲黑土」の中心地で表土の深さ約三尺に達し極めて肥沃である。第一次竝第二次移民團の本部が夫々永豐鎮及湖南營の如く先住滿人によつて開かれた部落に置かれて居るのに對し、第三次移民團の本部附近にはかゝる部落はない。元來當地方は開墾未だよく進まず從つて南滿地方に見る樣な大きな部落にまで發達したものは稀樂である。然し移住地の南方二里の地には綏稜縣城があり又克音河驛から移住地に向つて約一里の途中には綏稜縣城よ食りも商業の發達した興農鎭がある。綏棱縣城は現在戶數約事八百人口四千人を超え綏校縣の縣公署の所在地である。(四)密山縣諸地區本地區には第四次域子河、哈達河竝第五次移民團の入植地である永安屯、朝陽屯、黑臺及信濃樂食事村の六地區を含むことゝする。これ等の五つの地區は夫々西より東に接續し、地區の北方には勃利縣との縣境をなす完達山脉が東より西に一連に走り南方穆稜河に向つて漸次階段狀に傾斜して居る。北緯四十五度内外の地位である。其氣溫は七月下旬に於て最高に達し三十度內外を示し最低は一月中旬の三十五、六度を極數とする。初霜は九月中下旬で終霜は五月十日前後であるから無霜期間は百三、四十日である。地味は綏校地區に比較すれば多少劣るが何れも玄武岩を母岩とする壤土又は埴土で各種の農作物の栽培に適する。本地區に曠漠千里の地域にわたる小丘陵起伏し其の風物·內地に酷似する。この五つの地區は何れも土地よく拓け滿洲拓植株式會社の買收地で內、鮮滿の雜居である。既に林密線が昨年七月から本營業を開始し移住地は鷄西、東海、莫和山及黑臺の四驛を控へ交通は頗る惠まれて居る。これ等の移住地に至るには圖們から牡丹江を經て林口に至りそれから圖佳線と岐れて林密線に據らなければならない。牡丹江は濱綏線(舊北滿鐵道東部線)が滿洲國に讓渡され圖佳線の敷設に依つて急激に發達した東部滿洲の要衝である。圖佳、林密竝密虎線が完成

コマ24

し牡丹江、穆稜河流域の物資の仲繼地として往時の東京城或は寧安の繁榮を凌駕することが豫想される。現在日本人が約三千人餘り住んで居る。林口は鐵道開通までは僅かに二、三の滿人農家があつたに過ぎないが林密線の分岐點となるや急激に內地人、朝鮮人、滿人が蝟集して來て現在の市街を形成した。山の麥小るせ穫收と屋家民移これ等の五つの移住地附近には城子河、平陽、哈達河、連珠山保、王家燒鍋等の部落があるが黑臺驛の次の密山驛が將來發達の可能性が最も大である。この密山驛から東南十三粁、穆稜河の右岸に密山縣城がある。戶數約一千、人口五千を數へ附近農民を顧客とする市場である。飛行場もある。將來は縣公署も河を超へて密山驛附近の新設市街へ移轉するといふ。山の麥小るせ穫收と屋家民移八、宿舍關係入植當時は何れの移民團も從來滿人の住んで居た在來家屋を買收するか或は新築して共同宿舍として起居を共にする。從つて第一次移民團、第二次移民團の如く同一府縣出身者を以て小隊若くは部落を構成し得る移民團ではこの共同宿舍關係が都合よく行くが、第三次移民團及第四次移民團の如く同一府縣出身者が少くて勢ひ他府縣のものと同一家屋内に起移民居する場合には言語、習慣等に差異があつて時々は飛んだ滑團稽を演ずることがある。共同宿舍に起居して居る間は凡て共屋家同經營で作業も經理も凡て共同である。この間に農耕も其他の基礎的建設事業も進められ個人家屋の建築が捗ると家族の族家呼び寄せが始まる。旣に第一次竝第二次の移民團では殆ど所要の個人家屋の建設を終了し家族も大部分招致して了つた。第三次移民團ももう大分家族を招致して親子、夫婦水入らずのなごやかな生活が始められて居る。個人家屋は移民團によつて多少の相違はあるが、大體滿洲在來家屋を基準とし之に通風移民團屋家族家大體滿洲在來家屋を基準とし之に通風

コマ25

21尺21尺戶宛を建築することになつて居る。場合もあるが、家族も住むこともある。ることゝして居る。発光地種生大丈夫山地ふふ生活に導き樣多少の改を加べて而乃主三今第二次移民團の個人家屋の一例を示すと左圖の如くである。#【#雲are°ereと何れも大部分は團員の手によつて建てられたものが多い。下院指+1 E最初は建築が間に合はぬのでこの二間乃至三間房子內に二家族乃至三393〓題거E 120また第一次移民團の北大營部落の如くアパート式のものを建てた+1 10〇○税別+〓4차。窓4-43、22 4254 #·べ界一6尺→6尺ー-9R七、六、五、四、三、二、一、屋勝窓室壁土材三根手臺料說間房滿洲式草葺板敷、編墻トシ表面化粧塗、斷ス〓ネ滿洲式材料使用明洋式トシ差當リ紙張リトスハ全部ノ火ヲ利用スルモ夏ハ之ヲ遮床ハ坑トシ竈ノ火ヲ利用ス、基礎ハ突キ固メ土臺石ヲ置ク子土臺上張リ、(二家族住宅)三八遼ハ洋式トス近く一家族に一厚サ二尺但シ冬滿洲農業移民計畫に對する反對理由の中には滿洲の農業は經濟的に成立せぬとか、九農耕狀墾開況小麥、た。とが擧げられて居た。滿洲では到底滿人農業者と太刀打が出來ない等と云ふこ望なるものは麥類である。の農耕成績により夫等は全くの杞憂たることが明になつしむることは容易であり、八斗位ではあるが一兩年中には其の收量を一石位に達せ移住地に於ける畑作物として栽培せらるゝ普通作物は大麥、大豆、玉蜀黍、然るに第一、其の品質もグルーテンが多く其內でも小麥は平均反當收量粟高粱等であるが最も有二、三九三次等の數年間又はCO.九、八、經天地下室費井#【#雲°ere are紙張三百圓ノ豫定勝手板ノ間ノ下ニ地下室ヲ設ク下院指+1 E 393〓題거E +1 10墾開〇○税別+〓4차4254 #·べ界一6尺→6尺ー-9R七、六、五、四、三、二、一、屋勝窓根手

コマ26

カナダ小麥に匹敵し、麵麭製造に好適して居るから小麥作の收益の多きことは皆承知して居るが、從來豐凶の差が甚しい傾向があるので栽培面積もあまり增加しなかつたが、北滿克山農事試驗場で銳意品種改良に努められ優良品種も段々育成されて居るので一層有望なる作物となると思ふ。大麥は小麥以上に栽培容易であり其の反當收量は平均一石二斗位であるが、從來滿人農業者は大麥を馬糧とし、食用とすることを知らなかつた。日本人移住者にとつては栗や玉蜀黍よりも大麥の方が主食物として非常に適して居るので將來益々增加することゝ思ふ。其他燕麥、ライ麥もよく出來る、燕麥は重要なる馬糧として將來益々有望である。以上の如く麥類の栽培に適することは兎角不足勝の農耕勞力の需給關係を非常に緩和する。卽ち大豆、粟玉蜀黍等の普通作物が移住地では五月上旬からでなければ播種出來ないのに麥類は少くも一週間乃至十日間早く四月廿日頃から播種出來るので播種期の勞力需給緩和に非常に役立つし、尙麥類の除草中耕は二囘で充分であるから最も勞力を要する除草期の勞力緩和に大に與つて力がある。其他移住地に於ては滿洲に於て栽培される普通作物なら、高粱を除いて何でも栽培可能高粱を除いて何でも栽培可能である。高梁の栽培が出來ないのは全く其の生育期間の不足の爲である、尤も密山縣方面には多少の栽培はあるが、旣に述べた樣に主食料としては大麥も米も收穫出來るから主食物としての高梁の必要は無い。北滿僻陬の地に米が取れることは移民に取つて此上も無き福音でありこれ丈で移住者に大變な落付を與へて居る。米は黑河省曖琿地方の北緯五十度に於てさへ反當籾三石の收量を擧げて居る。將來日本人移民、並日本軍隊等の食糧米は自給して餘りありと思ふ。大豆は北滿農民の最も重要視する作物であり作付面積も起耕の畑るよに耕馬四〇乃至五〇%を占むることも珍らしくない。所謂荳耕作物が加はることは滿洲粗倣農業の地力維持上輪作の一として重要なる役割を演ずるのである。其他特用作物として棉は氣候の關係上南滿に限られて居るが、其代り麻類或は甜菜が有望である。麻は大麻、靑麻何でもよく出來る。甜菜は含糖率が非常に多いので滿洲の起耕の畑るよに耕馬

コマ27

擧ぐれば左表の通りである。給に努めて居るが、の飼養が盛になると思はれる。地の地力維持增進の目的が達せられるばかりでなく甜菜栽培を密接不離の關係にある家畜製糖工場は北滿に移りつゝある。將來は移民の組合組織の工場が出來るかも知れない。現在に於ては各部落とも若干宛栽培して自家用糖分の補四二斯くなれば移住忝玉粟高裸燕大小綠菜小大水作面物積移收量民蜀黍梁麥麥麥麥豆豆豆豆稻面作第一〇八·三一一二·六一八六·四〇〇〇一六·〇一九八·七一六一·九三·一町積付一收見二、一六六一、六八九一、四九一一、五八九二、一〇五次量込|一大九〇七八石各移民團作付狀況一〇六·六一五·一二三一一、〇六六五一五一二1三面作第一一七·八一〇〇·一三大二六三|二九〇·六三二五·三二一九二·大四大大p·10二〇〇6.84積付町二收見二、九二八二、二二五二八五錢次三八三四川量込三二七〇九六石(昭和十一年七月未調)草煙の期穫收擧げて居る次第である。ら自作の蔬菜を附近の軍隊に納入して現金收入を來る。胡瓜、類の作物もよく出來る。昭和十一年度各移民團別作付反別及收穫豫想を其他蔬菜は多少の馬糞を施した丈で如何なる種第四次域子河移民團等は入植早々であり乍白菜、茄子、甘藍、トマト、牛蒡等見事なものが出馬鈴薯、西瓜、三六一、〇〇二一、二〇一三六|面作第二〇〇三十七四十九七三三〇大二三五おん人一三七·四三二·〇二二五二三四·九보크스町積付四三收見一、六四四一、八三二次一二二五·二五豆豆七三四二二五七九八九六一二〇たし八七石量込面作一二·四·人°.二二·三一、三·一一.二五受·八一一九·七積付第四次城子河八二·一四九三九|町收見三三二四八三ニ三元買三二元四|七三一八二、三八七石量込一二·四·人°.二二·三一、三·一一.八二·一四九三九|四三面作積付第五次哈達河三〇七〇町收見二〇、coo石量込10七六三〇二〇二〇1七〇四八一〇〇四八〇000一六〇|

コマ28

適して居る。混同農業であり既設移民團の入植地は何れも家畜の飼養に滿洲農業移民團の農業經營の目標は畜產を加味した穀畜一〇畜産狀況蔬ル蕎馬煙稗大(參第第第第四次1計鈴考)サ三二一哈達河(城子河次次次一戶當耕作面積菜ン麥薯草麻一、〇八〇·〇六〇〇一. *三·五四·三三、三四|六類菜蔬た來出に事見1 1三六三|四二至九九草丈は驚異的伸長を見、も、豐作なり。平年作以上なり。も作况良好にして蔬菜類もに黑穗病の被害を認めたる外大豆、本年は各移民〓共春季以來降雨勝にして氣溫は低かりし大麻、本年度狀況土中水分充分なりしため作物の成育は頗る良好にして煙草等の特用作物開花結實も〓して住良にして小麥水稻、粟高梁等は皆菜蔬一、〇八一·〇六·大三十五五·〇0.四. [九四(昭和十一年七月調)一、二四〇、九五三、〇五三、三五三、二〇町| 1 | |五八、八四〇二、〇一二|三〇九七四三·七ニ、、八·三|三·一二·九二〇、七五〇1二、九〇〇三四三|二、九二四三八·一|大、二〇.三÷| 1一、八六〇|三二、二八〇三七(裸麥、蔬菜)大麻及蕎麥、馬鈴薯稗、黍、四五1010耕中の菜蔬

コマ29

役畜としては馬を中心として一部不足の畜力を牛によつて補つて居る。用畜としては牛並緬羊が最も重要で、各移民蜜團とも之に重きを置いて居る。各移民團は多少の乳牛を飼養しその牛乳は移住地の小兒並病人の使用に充て殘りを團蜂員が消費することにして居るが、第一次移民團の如きは尙餘りあるので各種乳製品を製造して居る。巢緬羊は種牡羊は日本內地產のコリデール種であり牝羊は蒙古の在來種である。其の飼養成績は內地から渡滿したばかりの未經驗の移民が之に當り乍らも其の蕃殖並育成の成績が頗る良い。特に濱江、三江省等の移民地は羊に對しては處女地であり、病毒等も少く最適地であるとは各專門家も高唱する處である。毛質は飼料、土地並管理の關係で在來種でも年々その品質が良くなつて來て居る。產出した羊毛並羊皮は其の一部を移住者の被服原料とする目的で各移民團とも拓務省又は日滿緬羊協會の肝入りで技術者を聘してホームスパン及皮鞣しの講習會を開催した。既に第一、第二次の移住地ではこの羊毛から毛糸を蜜蜂巢紡いで帽子、手袋、スウエーターを編み、又は洋服すら製つて居る。豚はその販賣關係から移住地では餘り大きな期待を繫ぐことは出來ないので何の移民團でも厨房の殘滓等を利用する程度に止めて居る。然し品種改良には意を用ひ「バークシヤー」種を種豚として在來種の改良を計らふとして居る。鷄も白色「レグホーン」を以て在來種に替へつゝある。移住地に於ける養蜂も亦特筆すべきものゝ一つである。同移住地の天然資源卽ち野花の豐富なこと、又越冬も案外容易等のことで年々增加し、一次のみで五十餘群の改良種を飼育し糖分の給源として頗る重寶がられて居る。各移民團の家畜飼養頭數は左表の通りである。手袋、スウエーターを編み、又は洋服すら製收穫せ小麥第

コマ30

幹旋、事業の促進並後援、滿洲產業開發に資する爲滿洲移住協會が設立せられ、用地の取得、に附帶する事業を行ひ滿洲農業移民に對し多大の貢献を爲して居る。金千五百萬圓を以て日本農民の移住助成並に移住地確保の目的を以て設立せられ、康德二年昭和十一年滿洲移民事業の統一ある發展を助成し、訓練等を行つて居る。(昭和十年)管理及分讓、(二) (一)移民事業の調査宣傳及紹介、滿洲移住協會滿洲拓植株式會社滿洲國法令に依る滿洲拓植株式會社は日滿兩國の協力に依り資本22移住者に必要なる施設、移住者の移民併て(3)移住者に必要なる金融、(4)前各號(1)移住の實を發揚せんことを宣明したのであるが、日滿兩國は其の一體不可分の關係を基調として五族協和之を實質的に第第第第移(備考)二、一、其他トハ家鴨、○頭ノ交付アリ本統計外緬羊ハ本年八月第二次ヘ一五〇頭、鳶、山羊、兎等ヲ示ス四民計次三二一畜哈城團一二、二、達子各移民團家畜飼養頭數結民間指導獎勵機關河河次次次種種1六|三頭馬一二馬耕言九七六七三六六一九九二六七三四頭馬乳三五八牛三九六碩牛役(昭和十一年七月末現在)第三次へ五〇頭、一元尺一六三五三五五頭牛緬一、六一七1二七二一二六五八九|頭羊第四次城子河へ三〇〇頭、豚一·一·四八二一三三六三八〇三二頭鶏一一五〇五七三三四四三九羽四九蜜哈達河ヘ二一八九三七六群蜂菜蔬るせ穫收と族家民移100五三六一六空九七其ノ他

コマ31

强化して滿洲國の開發を促進すると共に國防及治安の向上を顯現する爲我國は速かに滿洲國に於ける邦人の人口增加を圖るのが最大の急務である。他面現在の我國の國內情勢は年に約百萬人の人口增加を見るのであつて、凡ゆる社會不安の根源は玆にひそんで居る。殊に我國農村の窮乏は其の原因が零細農業に存するのであるから適當に其の人口を調節して過剩人口を海外に移住せしむる以外に農村更生の根本的解決を所期することは六ヶ敷い。幸に滿洲國に於ては建國の本義に鑑み我が國民の來住を双手を擧げて歡迎して居るのである。而も昭和七年より實施したる移民は前述の如く着々其の成果を收めづゝあり、大量移民は愈々重要國策の一として決定し、拓務省としては二十箇年百萬戶移住の大旆をかざして各關係筋と能く連絡協調の下に事業遂行上萬遺憾無きを期して居る。滿洲國としても大量移民に必要なる土地所得に早速着手せられた次第である。滿洲の寒さも、滿人との生活の競爭も、將又匪賊の跳梁も、我が質實剛健倦む事を知らざる移民團の前には脆くも潰滅した姿である。曠野漠々三千萬町步、內未耕地千八百萬町步は我が大和民族の來り拓かんことを待つて居るのである。

コマ32

(テキストなし)

コマ33

(テキストなし)

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版・追記・訂正の履歴

日時内容
2026年10月29日 05:09記事「満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点」(第6版)がこの原典を引用
2026年10月27日 23:07資料の書誌を更新
内容のハッシュ 93580206d9ed
2026年10月27日 19:06原典を取得

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