独自分析 近現代史の一次史料

満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数字を比べ直す

題名の根拠根拠

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近現代史の一次史料
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第6版
初版
2026年10月27日
更新
2026年10月29日
脚注
81 件(すべて原典と照合)
原典
21 件

要点

  • 1941年9月末の集団開拓団の入植総戸数25,923戸は第1期(1937〜41年度)の目標10万戸の約26%だが、計画が始まる前(1936年度まで)の第1〜5次の分が入っているので達成率とはみなせず、その分は史料の間で戸と名が食い違うので、どちらも戸とみなして約2,800戸を引いた場合に限れば、1937年度以降の分は目標の約23%になり、集合・分散開拓民と最後の半年の入植を含まないので、計画前の分が約2,800戸を超えなければ第1期の達成率の下限の目安になる根拠
  • 青少年義勇軍の1938〜41年度の送出は、計画12万人に対して、1941年10月までの渡満51,853名で見た約43%が下限で、採用者56,826人で見た約47%は、1941年度の採用がおおむね済んでいたと読めば上限の目安になるが、締め切りが書かれていないので確定せず、近藤証言の約7万人で見た約58%も、7万人が1943年ごろまでの渡満の累計か、その時に満洲にいた人数かが決まらないので、累計と読む場合に限った目安であり、約8万6千人を1977年の国会での発言のとおり終戦までに送り出した総数とすれば、終戦までの計画に対して、1943年の資料の年次計画表で千の位まで読める数字では約40〜47%、第2期の目標13万人を年度に均等に割る仮定では約38〜43%で、資料は計画を年々増やす方針を示しているので、前者が原文に近いと読めるが、約8万6千人の数え始めは示されておらず、1937年の先遣隊などを含む場合は、どちらの値もわずかに低くなる根拠
  • 死者の割合は、分子と分母が同じ調査表の数字に限ると、確認された死者だけの27.1%から、未引揚者が全員亡くなっていた場合の39.3%までで、ほかの資料の分子や分母を交差させた割合は範囲と時点がずれるので、この幅には含めず、感度の確認にだけ使う根拠
  • 戦後の開拓団・義勇隊の人数と死者数は、国会での政府の答弁と参考人・議員の発言、政府の答弁書と質問主意書を通した間接的な数字で、大もとの1953年の外務省調査表と1966年の『満洲開拓史』は今回読めていない根拠

1. 計画:何を、どの単位で、いつまでに送るつもりだったか(一次資料)

拓務省の刊行物によると、満洲への農業移民は「試験移民」から始まり、第1次の500名が1932年10月に三江省樺川県永豊鎮へ入植した[1]。1935年度の第4次までの4回を、1937年の資料は計1,800名と人数で書き、1940年の同省資料は「約千八百戸」と戸数で書いている[2][3]根拠。同じ規模を一方は人、一方は戸で数えているので、この時期の数字は単位から確かめる必要がある。1936年度には第5次として1,000戸の集団移民を送ることになった[4]。

1936年8月、広田内閣は大量開拓民送出計画を重要国策の一つとして決め、「二十箇年百万戸」の計画を立て、1937年から実施に入った[5]。満洲国の人口を約3,000万人とし、20年後の5,000万人の1割にあたる500万人、100万戸を送り込むという計算で[6][7][8]、500万人を100万戸で割ると、計画は1戸5人を前提にしている根拠。5年を1期として、第1期10万戸、第2期20万戸、第3期30万戸、第4期40万戸を入植させる予定だった[9]。1937年2月の時点で、拓務省は1937年度以降5か年で10万戸を送ることを「確定」としている[10]。

拓務省は1938年度から「満蒙開拓青少年義勇軍」を毎年3万人送るとした[11]。応募資格は数え年16〜19歳である[12]。1939年12月には満洲開拓政策基本要綱が閣議決定され、「移民」は「開拓民」と呼び改められた[13]。戦後の援護法は、1939年12月22日の閣議決定を青年義勇隊の起点にしている[14]。

第1期は1941年度で終わり、翌年度から第2期に入るという位置づけで、内閣は1941年12月31日に第2期五箇年計画の要綱を定めた[15]。大東亜省の実行目標によると、第2期は第1期と通算で累計30万戸に達することを目途とし[16]、1942年度からの5年間で、一般開拓民と義勇隊開拓民を合わせて22万戸、青年義勇隊13万人を目標とした[17][18]。同じ文書は、義勇隊の卒業者を渡満訓練生数の「五分減」(95%)、そのうち鉱工部門などに向かう者を訓練生数の1割と見込んでいる[19]。

2. 1941年秋の実績を、同じ時期の目標と比べる

拓務省拓北局の『満洲開拓民概要』(1941年11月刊)によると、1941年9月30日現在、第1〜10次の集団開拓団は196団で、入植総戸数25,923戸、現在人口72,164人だった[20][21]。集合開拓民の現在人口は9,158名[22]、分散開拓民(いわゆる自由移民を含む)は10,699人で[23]、一般開拓民の人口は合わせて92,021人になる根拠。ただし三つの基準日は9月末・記載なし・10月末で、そろっていない[22][23]。集団開拓団は先遣隊が先に入り、本隊は3か年に分けて送る仕組みだった[24]。196集団のうち、計画の始まる前(1936年度まで)に送られた第1〜5次は9集団で[25]、第1〜4次は1940年の資料が約1,800戸[3]、1937年の資料が1,800名、1941年の資料が約1,800名と書き[2][26]、第5次は1937年の資料が1,000戸の送出としながら入植地別の内訳を名で書き[4][27]、1941年の資料は1,000名が送出されたと書いている[28]。

【分析】第1期の目標は戸数で決められているので、比べられるのは戸数である根拠。

【分析】25,923戸には計画が始まる前(1936年度まで)の第1〜5次の9集団の分が入っているが、その規模は史料の間で戸と名が食い違っていて、何戸を引けばよいかは決められず、第1〜4次の約1,800と第5次の1,000をどちらも戸とみなして約2,800戸を引いた場合に限って、1937年度以降の第6〜10次の分は約2万3千戸、第1期(1937〜41年度)の目標10万戸の約23%となり、名が人数で戸数がそれより少なければ引きすぎで値は低めに出るので、計画前の分が約2,800戸を超えないという条件のもとでは、集合・分散開拓民の戸数も1941年10月から第1期の終わり(1942年3月)までの半年の入植も入っていないこの値は、第1期の達成率の下限の目安になる根拠。

【分析】計画前の分を引かずに25,923戸を10万戸で割った約26%は、分子に計画前の4年余りの入植が入っていて分母の期間と合わないので、第1期の達成率とはみなせず、達成率は上の条件つきの下限からしか決められない根拠。

【分析】集合・分散開拓民の戸数を載せた表は自動OCRが崩れていて読めず、人数の9,158名と10,699人を戸数として足すこともできないので、第1期全体の達成率は、この資料からは、計画前の分を戸として引いた場合の約23%という下限より先は決められない根拠。

【分析】1943年の第2期計画は、第1期と通算で30万戸、第2期の5年で22万戸としているので、差し引くと第1期の分を8万戸と数えていたことになり、第1期の目標10万戸の8割にあたる根拠。

【分析】この8万戸が実績なのか見込みなのかは文書に書かれておらず、1941年9月の集団開拓団の25,923戸との差を、集合・分散開拓民、義勇隊開拓団、1941年度の残り半年のどれが埋めたのかは、今回の資料では確かめられない根拠。

【分析】戸と人の換算に使える根拠は計画の前提の1戸5人だけで、1941年9月の集団開拓団の現在人口72,164人を入植総戸数25,923戸で割った1戸あたり2.78人は、分子が今いる人口、分母がこれまでに入植した戸数の累計で、本隊を3か年に分けて送っている途中の団を含む可能性があるので、世帯の大きさとはみなせず、計画の戸数を人数に直すのには使わない根拠。

義勇軍の計画は人数で決められていた[11]。

【分析】計画は送出の人数、実績は渡満と採用の人数で、この違いを前提に比べると、1938〜41年度の4年度分の計画12万人に対して、1941年10月までの渡満51,853名は約43%で、1941年11月から1942年3月までの渡満を含まないので、4年度分の達成率の下限である根拠。

【分析】1941年までの採用者56,826人は計画の約47%で、資料は1941年度について、応募者が大いに増え、中隊を編成できなかった府県はわずか数県になったと済んだこととして書いているので、1941年度の採用はおおむね終わっていたとも読め、そう読めば1942年3月までの渡満は採用者の数を超えないので、47%は4年度分の送出の達成率の上限の目安になるが、資料は年度の途中の11月の刊行で採用の締め切りを書いておらず、年度末までに採用と渡満が続いていた場合には渡満の数は56,826人を超えうるので、上限とは確定できない根拠。

【分析】近藤参考人の、1943年ごろに渡満した義勇隊が約7万人という証言は、関東軍に義勇隊が「現在何万いるか」と聞かれたときの答えで[29][30]、渡満の累計とも、その時に満洲にいた人数とも読めるので、累計と読む場合に限り、1942年3月までの渡満はこれを超えず、4年度分の送出の達成率は約58%を超えないという目安になるが、その時にいた人数と読めば、関東軍への入営や死亡で抜けた人の分だけ渡満の累計は7万人を超えうるので上限にならず、この証言からは4年度分の達成率の上限は決められない根拠。

近藤安雄参考人(元義勇隊訓練本部総務部長)は1955年の国会で、制度の説明のなかで「理想といたしましては」と前置きし、1府県で1個中隊を編成して「毎年三万人ずつ」送出したと述べた[31]。

【分析】これは計画の毎年3万人と同じ数字で、「理想といたしましては」が毎年3万人の送出にまでかかると読めば、実績ではなく制度の建前の説明になり、中隊の編成だけにかかると読めば、毎年3万人を送り出したと過去の事実として述べたことになって、1941年10月までの渡満51,853名という記録と合わず、証言の正確さの問題になるが、どちらに読んでも、この記録の代わりには使えない根拠。

3. 終戦時の人数は、何を数えたかで分かれる

政府側が根拠として示したのは、外務省が帰国者の情報をもとに1953年3月にまとめた「在満開拓団・義勇隊在籍者調査表」の241,160名である[32][33]。1993年の政府の答弁書は、これを「昭和二十年度末において、義勇隊及び報国農場にいた者を合わせた開拓団在籍者」と説明している[33]。もう一つは、外務省審議官が1991年に「参考として」引いた1966年刊『満洲開拓史』の数字で、終戦直前の開拓団関係約16万7千人、義勇隊関係約5万8千人、計約22万5千人である[34][35]。同じ答弁で外務省は、自らは正確な数字を把握していないと述べた[36]。元開拓団長で開拓自興会会長の吉崎千秋参考人は、1956年に開拓者と義勇隊員の総数を27万人とした[37]。

表1 終戦前後の開拓関係者の人数(対象・時点・数え方が違うので、差をそのまま誤差や死者の数とは言えない)根拠

数字何を数えたか時点数え方出典と経路一次資料
約22万5千人開拓団関係約16.7万+義勇隊関係約5.8万終戦直前ある時点の人数『満洲開拓史』1966 → 外務省答弁1991 [34][35]未確認(孫引き)
241,160名開拓団在籍者(義勇隊・報国農場を含む)「昭和二十年度末」在籍者外務省調査表1953 → 政府答弁書1993・2006、厚生省答弁1995 [33][38][39]未確認
27万人開拓者と義勇隊員の総数終戦当時説明なし吉崎参考人1956 [37]根拠の記載なし
約3万人訓練所に属していた義勇隊訓練生(外への動員中を含む)終戦当時ある時点の人数近藤参考人1955 [40]証言のみ
22,518名調査表上の義勇隊訓練所員「昭和二十年度末」在籍者外務省調査表1953 → 厚生省答弁1995 [41]未確認

【分析】三つの総数は範囲と時点が違う数字で、22.5万人と27万人はどちらも丸めた数なので差も概数でしか言えず、241,160名は22.5万人より約1.6万人多く、27万人は241,160名より約3万人多いが、この差だけからどれかが誤りだとは言えない根拠。

【分析】吉崎参考人が27万人の内訳として挙げた帰着14万6千人、死亡65,323人、未引揚26,587人を足すと約23.8万人で、帰着と27万人が丸めた数なので正確な人数は決められないが、27万人には3万人あまり足りず、27万人の根拠はこの発言からは確かめられない根拠。

【分析】吉崎参考人は続けて「二十七万人の中の五五%」が帰り、「二七%の約六万五千人」の死亡が確認されたと述べたが[42][43]、65,323人を同じ発言の27万人で割ると24.2%で、本人の挙げた「二七%」という数字とは合わない根拠。

【分析】65,323人がちょうど27%になる母数は241,937人で、四捨五入して27%になる母数の範囲は237,538人から246,502人である根拠。

【分析】この範囲に調査表の241,160名は入り、27万人は入らないが、吉崎参考人の内訳の合計約23.8万人は範囲の下の端の237,538人とほぼ同じで、帰着の14万6千人が丸めた数なので、入るかどうかは決められない根拠。

【分析】したがって「二七%」は、約24万人を母数にすれば四捨五入で合うが、同じ発言は「二十七万人の中の」と母数を示しているので、27万人を母数にして計算を誤った可能性も残り、この算術だけではどちらの母数で計算したかは決められない根拠。

【分析】一方「五五%」は、14万6千人を27万人で割ると54.1%、241,160名で割ると60.5%で、どちらの母数を前提にしてもぴったりは出ないが、同じ発言の後半にある引揚者の「十五万幾ら」を27万人で割ると、15万ちょうどでも55.6%で、五五%に近く、五五%は27万人を母数にしてこちらの数から出した比とも読める根拠。

【分析】この手がかりから言えるのは、吉崎証言の27万人・五五%・二七%が一つの母数では互いに合わないことまでで、27万人の出所も、どちらの母数が正しいかも決められない根拠。

4. 義勇隊:送った総数と、終戦時にいた数は別物

近藤参考人の「全部の義勇隊が八万六千人くらい」は、期間も、送出・渡満・採用のどれで数えたかも言っていない[44]。1977年の国会では、川本敏美委員が、拓務省の募集した青年移民について「昭和二十年八月までに大体八万六千人余り送り出されておる」と述べ、期間を終戦まで、数え方を送出としたが、この数字の出典は示していない[45]。同じ日に田口一男委員は「八万六千有余名と言われておる」と伝聞の形で引いている[46]。

川本委員のこの発言は、1937年11月30日の閣議決定に始まる青年移民からの流れを論じたもので[47]、8万6千人余りを何年から数えたかは言っていない。閣議決定は「昭和十三年度より」青年移民を実施するとしていたが[48]、同じ日の田口委員は「十二年の第一次先遣隊」に触れ[49]、その人数を319名としている[50]。近藤参考人は、義勇軍は「昭和十三年に始まった」と述べるが、約8万6千人に1937年の先遣隊を入れたかどうかは言っていない[51]。

【分析】渡満した義勇隊は、拓北局の記録によれば1938年から1941年10月までに51,853名で、近藤参考人の1943年ごろの約7万人は、渡満の累計と読めば51,853名から増えた数として矛盾せず、その時に満洲にいた人数と読んでも、渡満の累計はそれ以上になるので、どちらに読んでも51,853名とは矛盾しない根拠。

【分析】一方、約8万6千人について、近藤参考人は期間も数え方も示していないが、1977年の川本委員は終戦までに送り出した総数として述べており、そう読めば51,853名・約7万人に続く数として矛盾しないが、川本委員も出典を示しておらず、同じ日の田口委員は伝聞として引いているので、採用者や在籍した者の総数である可能性も残り、同じ系列の数字だとは確かめられない根拠。

【分析】約8万6千人を、川本委員の発言のとおり終戦までに送り出した総数と読むなら、1938〜41年度の4年度分だけの計画12万人と比べた約72%は、分子が終戦まで、分母が1941年度までの4年度分で期間が合わず、終戦までの計画は12万人より大きいので、終戦までの達成率の上限にすぎない根拠。

【分析】約8万6千人を終戦までに送り出した総数とすれば、第2期(1942〜46年度)の青年義勇隊の目標13万人を足した1938〜46年度の計画25万人と比べると約34%で、分母に終戦より後の1年半余りの分が入っているので、こちらは下限である根拠。

終戦の時点までの計画を出すには、第2期の13万人が年度ごとにどう割り振られていたかが要る。1943年の大東亜省の実行目標は、第2期の年度別の割合を「逐年遞增ノ方針」で決めるとし[52]、「義勇隊訓練生渡滿年次計畫表」を載せている。表は自動OCRが崩れているが、1942〜46年度(康徳9〜13年度)の訓練生数は、千の位までなら「一二、二〇、三〇、三〇、三七、」と並び、合計は「計一三〇、〇〇〇」と読める[53][54][55][56][57][58]。千の位より下の数字と、中隊数の列は崩れていて読めない。

【分析】読めた千の位までの五つの数を足すと12.9万人で、合計の13万人を超えないので、読めた数字は合計と矛盾せず、千の位より下の数字は五つの年度を合わせて千人分になると読める根拠。

【分析】この表の数字を年度の順に当てはめると、1944年度末までの計画は、第1期の12万人に1942〜44年度の分を足して18.2万〜18.3万人で、約8万6千人はその約47%にあたり、終戦の時点までの計画はこれより大きいので、年次計画表で読める数字からは、終戦までの達成率は約47%を超えないと読める根拠。

【分析】同じ表で1945年度末までの計画は多くとも21.3万人で、約8万6千人はその約40%にあたり、分母が終戦後の7か月分を含むので下限であり、年次計画表で読める数字からは、終戦までの達成率は約40〜47%のあいだと読める根拠。

【分析】年次計画表によらず、第2期の13万人を5年度に均等に割り振ったとすれば、1944年度末までの計画は19.8万人、1945年度末までの計画は22.4万人で、約8万6千人はそれぞれの約43%と約38%にあたる根拠。

【分析】ただし資料は年度別の割合を年々増やす方針を示しており、年次計画表で読める1944年度末までの計画は多くとも18.3万人で、均等割りの19.8万人より少ないので、均等割りは原文の方針と合わない仮定で、その場合の43%は終戦までの達成率の上限にならず、38〜43%は仮定を置いた場合の目安にとどまる根拠。

【分析】また、川本委員の発言は8万6千人余りを何年から数えたかを示しておらず、1937年の第一次先遣隊などが含まれている場合、1938年度以降の計画に対する達成率はここまでの値よりわずかに低くなり、原文で人数の分かる第一次先遣隊の319名だけなら、年次計画表で読める分母の18.2万〜21.3万人に対して差は約0.2ポイント以下で、約40〜47%という丸めた幅は変わらないが、1937年にほかに送られた人がいたかどうかとその人数は、今回の資料からは分からない根拠。

近藤参考人が終戦時の数として挙げた約3万人は、同じ証言で、うち約2万2千名が南満の重工業地帯などに出ていたとされ[40]、「病人と低年次の生徒が訓練所に残って」いたと続く[59]。1943年ごろについても、渡満は7万くらい、訓練所にいるのは3万くらいと述べている[30]。訓練を終えた隊員は義勇隊開拓団に移り、1941年10月の最初の義勇隊開拓団だけで約1万7千名いた[60]。隊員は現地で徴兵検査を受け、関東軍に入隊するとされていた[61]。1995年の厚生省答弁も、開拓団員213,666名のうち何人が義勇隊の出身かは推計できないとしている[62]。

【分析】したがって約3万人は、在満した義勇隊の全員ではなく、訓練所に属していた訓練生の数と読める根拠。

【分析】約8万6千人は、近藤参考人が期間も数え方も言わず、1977年の川本委員が出典を示さずに終戦までに送り出した総数とした数、約3万人は終戦時に訓練所に属していた時点の数で、その差を死者や行方不明者の数とはみなせず、差の中身はこの二つの数字からは決められない根拠。

【分析】調査表の訓練所員22,518名は、約3万人と同じく訓練所に属していた義勇隊を数えたものとも読め、そう読めば、出所(帰国者の情報による1953年の調査表と、元訓練本部総務部長の証言)も時点(「昭和二十年度末」と終戦当時)も違う、同じ集団についての二つの数字が食い違っていることになるが、調査表がいつの時点の誰を訓練所員として数えたかは答弁から分からないので、どちらが実際に近いかは決められず、『満洲開拓史』の義勇隊関係約5万8千人は、訓練所の訓練生に限ったとは示されておらず、約3万人と範囲がそろう根拠がない根拠。

5. 死者の割合:同じ調査表の中では27%から39%

1993年の答弁書によると、調査表の在籍者241,160名の内訳は死亡65,323名、帰還146,330名、未引揚29,507名で、足すと在籍者の数にちょうど一致する[63][64][65]根拠。吉崎参考人は、1956年2月の時点で死者は8万人に達し、全体の3割になると述べた[66]。同じ発言には、弔慰金の対象になった義勇隊の死者として「五千人」、まだ処遇のない一般開拓者として「七万五千人」という数字が出てきて、足すと8万人になり、8万人の内訳と読める[67][68]根拠。川崎寛治委員も1986年に「二十七万のうち八万」を使ったが[69]、出典を示しておらず、吉崎証言とは独立した裏付けとは言えない根拠。

表2 死者の割合(分子と分母の組み合わせごと。分子と分母が同じ資料のものを主な数字とし、範囲・時点の違う資料を交差させたものは感度の確認としてだけ下に載せる。義勇隊の2行は、出典の示されていない約8万6千人を分母にした場合の目安で、義勇隊の死亡率とは確定できない)根拠

扱い分子(死者)分母割合分子と分母は同じ資料か読み方・交差させた理由
主65,323名(1953年3月までに確認)[63]241,160名(調査表の在籍者)[33]27.1%同じ調査表確認された死者だけの下限
主65,323名+未引揚29,507名=94,830名 [65]241,160名39.3%同じ調査表未引揚者が全員亡くなっていた場合の上限
参考8万人(吉崎、1956年2月)[66]27万人(吉崎)[37]29.6%同じ発言(根拠の記載なし)「3割」のもとの計算。分子も分母も出所が示されていない
義勇隊(目安)3,070名(1955年6月に確実と分かっていた死者)[70]約8万6千人(「全部の義勇隊」。近藤参考人は期間・数え方を言わず、1977年に終戦までの送出とする発言があるが出典は示されていない)[44][45]3.6%同じ発言この数を分母にした場合の目安。終戦までに送り出した総数か、採用者や在籍した者の総数かが確かめられず、義勇隊の死亡率とは確定できない
義勇隊(目安)3,070名+行方不明約3,000名 [71]約8万6千人(同上)7.1%同じ発言同上
感度65,323名27万人(吉崎)24.2%違う分母だけを吉崎の総数に替えた場合。27万人は終戦当時に満洲にいた人数で根拠が示されず、「昭和二十年度末」の在籍者とは時点も範囲も違う
感度65,323名22.5万人(『満洲開拓史』)[34]29.0%違う分母だけを終戦直前の人数に替えた場合。報国農場を含むかが分からず、調査表の在籍者と範囲がそろう根拠がない
感度8万人241,160名33.2%違う分子だけを吉崎の1956年2月の死者数に替えた場合。8万人が調査表の在籍者に限った死者かが分からない
感度8万人22.5万人35.6%違う分子も分母も調査表の外の数字で、範囲がそろう根拠がない

【分析】調査表の在籍者に限れば、死者の割合は、確認された死者だけの27.1%から、未引揚者29,507名が全員亡くなっていた場合の39.3%までの範囲にある根拠。

【分析】表2の感度の4行(24.2%・29.0%・33.2%・35.6%)は、分子か分母を範囲・時点の違う別の資料に替えた場合に割合がどこまで動くかを示すだけで、どれも同じ人々についての死者の割合ではないので、死者の割合の幅には入れない根拠。

【分析】吉崎参考人の8万人は、確認済みの65,323名と、未引揚者を全員加えた94,830名のあいだにあるので、未引揚者の一部がのちに死亡と判明した分が加わった数字とも読めるが、分母の27万人は調査表の在籍者と範囲が違い、この一致だけでは裏付けにならない根拠。

【分析】義勇隊について吉崎参考人の挙げた5千人は、近藤参考人の確実な死亡約3,070名と、行方不明(概数)を足した約6千名のあいだにあり、二つの証言は矛盾しない範囲にある根拠。

【分析】義勇隊の分母の約8万6千人は出典の示されていない総数で、川本委員の言うように終戦までに送り出した総数なら卒業して義勇隊開拓団に移った人も含み、採用者や在籍した者の総数である可能性も残るので、義勇隊の3.6〜7.1%はこの数を分母にした場合の目安にとどまり、調査表の27.1%と並べて、義勇隊の死亡率が低かったとは言えない根拠。

2006年の質問主意書は、開拓団員とその家族から引き揚げの途中に「約十万人の死亡・行方不明者」が出たとしている[72]。

【分析】この約10万人は、調査表の死亡と未引揚の合計94,830名に近いが、質問者は出典を書いておらず、未引揚者は行方不明者と同じ定義ではないので、同じ数字だとは決められない根拠。

厚生政務次官が1956年に答弁した「十七、八万あるいは二十万」の死者の推定は、一般邦人を含む数字なので、表2には入れていない[73]。厚生労働省は、1945年8月9日のソ連軍の参戦で開拓団などの日本人の多くが犠牲になったと説明しているが、開拓団に限った死者数は示していない[74]。2026年8月31日現在、残留日本人孤児の総数は2,818人[75]、永住帰国者は6,732人で[76]、どちらも開拓団の出身者に限らない。

6. 1945年の人数を、計画と比べるなら

【分析】1945年8月は1937年に始まった20年計画の9年目にあたるので、終戦時の人数を20年分の500万人と比べても計画の進み具合は分からず、比べる相手は当時進んでいた第2期の目標である根拠。

【分析】第2期の目標は第1期と通算で30万戸で、これを人数に直すと、計画の前提の1戸5人とすれば150万人になる根拠。

【分析】終戦時の22.5万〜27万人は、1戸5人を前提に直した目標150万人の15〜18%にあたるが、分子は終戦時にいた人数、分母は1946年度末までに入植させる累計の目標なので、これは達成率ではなく規模の目安であり、そのうえ目標の戸数には義勇隊開拓民の分が含まれ、訓練を終えた隊員は「一戶當り」の耕地を分譲されるとされていたので、隊員一人を一戸と数えていたとすれば、その分まで1戸5人で直した150万人は人数の目標として大きすぎ、15〜18%は人数で見た割合より低めに出ている可能性がある根拠。

ただし、この比較には三つのずれが残る。目標は第2期の5か年(1942〜46年度)の終わりまでの累計の戸数で、1945年8月にはまだ1年半以上が残っていた[16][17]。比べている人数は終戦時にいた人数で、それまでに亡くなった人や内地に戻った人は入らない[34][37]。年度ごとの目標を載せた「年度別計画戸数表」は資料にあるが、自動OCRが崩れていて読めず、目標の戸数のうち義勇隊開拓民の分がどれだけかも分からない[16][17]。

7. 戦後の数字はどこから来たか

【分析】241,160名と65,323名は、1993年の政府答弁書、1995年の厚生省の答弁、1956年の吉崎証言(65,323名のみ)、2006年の政府答弁書(241,160名のみ)がそれぞれ引いているが、大もとはどれも1953年の外務省調査表一つで、互いに独立した裏付けではない根拠。

外務省は1991年には正確な数字を把握していないと答えたが[36]、1993年の答弁書は調査表を「外務省に現存している」ものとして内訳を示した[33]。2006年の答弁書は在籍者の241,160名だけを示し、都道府県別の送出数・帰還者数・死亡者数・行方不明者数は資料が保存されていないとした[38][77]。

【分析】「昭和二十年度末」は字義どおりなら1946年3月末で、終戦時と同じ時点の数え方かどうかは、答弁書の文面からは決められない根拠。

27万人・8万人・22.5万人の三つは、さらに出所が見えない。27万人と8万人は吉崎参考人が根拠を示さずに挙げ[37][66]、22.5万人は外務省が『満洲開拓史』から「参考として」引いた[34]。旧厚生省の引揚援護局が作った「引揚者在外事実調査票」は、開拓団・県別の簿冊として国立公文書館に残るが、オンラインで本文を読めるかは確かめられなかった[78]。

8. この記事の限界

戦前の資料は国立国会図書館の自動OCRで読んでおり、旧字体の置き換えや判読不能字(〓)がある。表の数字は、1943年の資料の義勇隊訓練生の渡満の年次計画表で千の位まで読める数と合計を除いて使っておらず、その表も千の位より下は読めない[53][58]。国立公文書館の資料は目録だけを使った[15][79][80][81][78]。1953年の外務省調査表と1966年の『満洲開拓史』そのものは確認できておらず、戦後の開拓団・義勇隊の人数と死者数は、国会での政府の答弁と参考人・議員の発言、政府の答弁書と質問主意書を通した間接的な数字である根拠。

出典

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  1. 満洲農業移民の現況(拓務省拓務局、コマ7): 「第一次移民五百名を昭和七年十月三江省樺川縣永豐鎮に」 原典 照合済み ↩
    関連: 拓務省、拓務省拓務局
  2. 満洲農業移民の現況(拓務省拓務局、コマ8): 「四囘に亘る千八百名が所謂試驗移民である」 原典 照合済み ↩
    関連: 拓務省、拓務省拓務局
  3. 満洲開拓農民の概況(満洲開拓叢書 第2輯)(拓務省拓務局、コマ8): 「昭和十年(康德二年)第四次開拓團迄に入植せる約千八百戶の開拓民の成績良好なるに鑑み」 原典 照合済み ↩
    関連: 拓務省、満蒙開拓(満洲への農業移民)、拓務省拓務局
  4. 満洲農業移民の現況(拓務省拓務局、コマ8): 「昭和十一年度に於て第五次集團移民として全國より一千戶の送出を行ひ」 原典 照合済み ↩
    関連: 拓務省、拓務省拓務局
  5. 満洲開拓農民の概況(満洲開拓叢書 第2輯)(拓務省拓務局、コマ8): 「昭和十一年八月廣田内閣に於て大量開拓民送出計畫は重要國策の一として決定し、之に基き二十箇年百萬戶の大量送出計畫を確立し、昭和十二年より其の實施に着手した」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、拓務省、拓務省拓務局
  6. 満洲開拓農民の概況(満洲開拓叢書 第2輯)(拓務省拓務局、コマ8): 「本計畫は當時に於ける滿洲國の人口を〓ね三千萬人とし、爾後二十年間に五千萬人に增加するものと推定し」 原典 照合済み ↩
    関連: 満洲国、拓務省、拓務省拓務局
  7. 満洲開拓農民の概況(満洲開拓叢書 第2輯)(拓務省拓務局、コマ8): 「その人口の一割五百萬人百萬戶の開拓民を送出せんとするものである」 原典 照合済み ↩
    関連: 満洲国、満蒙開拓(満洲への農業移民)、拓務省、拓務省拓務局
  8. 満洲開拓農民の概況(満洲開拓叢書 第2輯)(拓務省拓務局、コマ8): 「一割五百萬人百萬戶の開拓民を送出せんとするものである」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、拓務省、拓務省拓務局
  9. 満洲開拓農民の概況(満洲開拓叢書 第2輯)(拓務省拓務局、コマ8): 「五箇年を一期として、第一期十萬戶、第二期二十萬戶、第三期三十萬戶、第四期四十萬戶入植の豫定である」 原典 照合済み ↩
    関連: 拓務省、拓務省拓務局
  10. 満洲農業移民の現況(拓務省拓務局、コマ9): 「昭和十二年度以降五箇年間に十萬戶を送出する事に確定」 原典 照合済み ↩
    関連: 拓務省、拓務省拓務局
  11. 満洲開拓農民の概況(満洲開拓叢書 第2輯)(拓務省拓務局、コマ7): 「滿蒙開拓靑少年義勇軍を昭和十三年度より每年三萬人を送出し」 原典 照合済み ↩
    関連: 拓務省、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、拓務省拓務局
  12. 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)(拓務省拓北局、コマ25): 「年齡數へ年十六歲より十九歲までの者」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、拓務省、拓務省拓北局
  13. 満洲開拓農民の概況(満洲開拓叢書 第2輯)(拓務省拓務局、コマ9): 「滿洲開拓政策基本要綱を作成し、同年十二月閣議決定を見たが、之に依れば滿洲移民に關する用語は左記の通り改稱する事になつた」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、拓務省、拓務省拓務局
  14. 第80回国会 衆議院 社会労働委員会 第8号 発言9(川本敏美委員)・37(田口一男委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言9(川本敏美委員)): 「昭和十四年十二月二十二日の閣議決定によって開始されたいわゆる旧満州開拓青年義勇隊の隊員をその対象とい…」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、国立国会図書館
  15. 満洲開拓第二期五箇年計画要綱ニ関スル件ヲ定ム(公文類聚・第六十五編・昭和十六年・第八十七巻)(国立公文書館、目録情報): 「請求番号: 類02495100-01000 作成者: 内閣 年月日: 1941-12-31」 原典 照合済み ↩
    関連: 国立公文書館、満蒙開拓(満洲への農業移民)
  16. 満洲開拓第二期五箇年計画実行目標(大東亜省、コマ5): 「第二期五箇年計畫ハ二十箇年百萬戶計畫ヲ基準トシ第一期計畫ヲ通ジ累計三十萬戶ニ達セシムルヲ目途トシ」 原典 照合済み ↩
    関連: 大東亜省
  17. 満洲開拓第二期五箇年計画実行目標(大東亜省、コマ5): 「以降五箇年間ニ一般開拓民義勇隊開拓民ヲ含メ二十二萬戶ヲ計畫目標トス」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、大東亜省
  18. 満洲開拓第二期五箇年計画実行目標(大東亜省、コマ5): 「靑年義勇隊ニ付テハ十三萬人ヲ計畫目標トス」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、大東亜省
  19. 満洲開拓第二期五箇年計画実行目標(大東亜省、コマ8): 「前者ヲ渡滿訓練生數ノ五分減トシ、後者ヲ渡滿訓練生數ノ一割ト推定スルモノトス」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、大東亜省
  20. 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)(拓務省拓北局、コマ12): 「合計一九六集團にして、其の入植總戶數二五、九二三」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、拓務省、拓務省拓北局
  21. 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)(拓務省拓北局、コマ12): 「現在人口總數は七二、一六四人である」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、拓務省、拓務省拓北局
  22. 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)(拓務省拓北局、コマ21): 「尙本開拓民現在人口數は九、一五八名である」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、拓務省、拓務省拓北局
  23. 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)(拓務省拓北局、コマ21): 「本開拓民組合數、入植戶數は左記の通にして、現在人口數は一〇、六九九人である」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、拓務省、拓務省拓北局
  24. 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)(拓務省拓北局、コマ10): 「先遣隊の人數は當該開拓團計畫戶數の約二割に當る。本隊の送出は三箇年計畫で、第一年度に全員の六割」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、拓務省、拓務省拓北局
  25. 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)(拓務省拓北局、コマ12): 「今入植次別團數を見るに第一次より第三次までは各一集團、第四次は二集團、第五次は四集團」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、拓務省、拓務省拓北局
  26. 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)(拓務省拓北局、コマ6): 「拓務省の集團開拓民は昭和十年第四次までに約一千八百名を送出した」 原典 照合済み ↩
    関連: 拓務省、拓務省拓北局、満蒙開拓(満洲への農業移民)
  27. 満洲農業移民の現況(拓務省拓務局、コマ8): 「永安屯(三百名)、朝陽屯(三百名)黑台(二百名)、信濃村(二百名)」 原典 照合済み ↩
    関連: 拓務省、拓務省拓務局
  28. 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)(拓務省拓北局、コマ6): 「昭和十一年には第五次開拓民として一千名が送出された」 原典 照合済み ↩
    関連: 拓務省拓北局、満蒙開拓(満洲への農業移民)、拓務省
  29. 第22回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第5号 発言56(近藤安雄参考人)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言56(近藤安雄参考人)): 「関東軍から呼び出しがございまして、義勇隊が現在何万いるかと聞かれました」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 関東軍、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、国立国会図書館
  30. 第22回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第5号 発言56(近藤安雄参考人)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言56(近藤安雄参考人)): 「当時渡満したのは七万くらいでございましたが、訓練所にいるのは三万くらいである」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、国立国会図書館
  31. 第22回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第5号 発言56(近藤安雄参考人)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言56(近藤安雄参考人)): 「理想といたしましては一府県で一個中隊を編成して、毎年三万人ずつ満州に送出いたしました」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満洲(中国東北部)、国立国会図書館、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)
  32. 第132回国会 参議院 厚生委員会 第4号 発言57(佐野利昭政府委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言57(佐野利昭政府委員)): 「外務省が、帰国した人たちからの情報に基づきまして、昭和二十八年三月に在満開拓団義勇隊在籍者調査表とい…」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 外務省(日本)、厚生省、満蒙開拓(満洲への農業移民)、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、国立国会図書館
  33. 参議院議員吉川春子君外三名提出中国残留婦人の永住帰国の実現に関する質問に対する答弁書(内閣参質一二八第一号)(参議院、答弁書第一号「一の2について」): 「昭和二十年度末において、義勇隊及び報国農場にいた者を合わせた開拓団在籍者二十四万千百六十名のうち」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 外務省(日本)、満蒙開拓(満洲への農業移民)、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)
  34. 第120回国会 参議院 内閣委員会 第3号 発言244・247・248(竹中繁雄政府委員)・249(吉川春子委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言244〜248(竹中繁雄政府委員)): 「終戦直前の時点での人数は、開拓団の関係が約十六万七千人ぐらい、それから義勇団の関係、これは成人に至ら…」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満洲(中国東北部)、満蒙開拓(満洲への農業移民)、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、外務省(日本)、国立国会図書館
  35. 第120回国会 参議院 内閣委員会 第3号 発言244・247・248(竹中繁雄政府委員)・249(吉川春子委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言244〜248(竹中繁雄政府委員)): 「その関係が約五万八千ということで」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、外務省(日本)、国立国会図書館
  36. 第120回国会 参議院 内閣委員会 第3号 発言244・247・248(竹中繁雄政府委員)・249(吉川春子委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言244〜248(竹中繁雄政府委員)): 「残念ながら外務省としましては正確な数字を把握しておりません」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 外務省(日本)、国立国会図書館、満蒙開拓(満洲への農業移民)
  37. 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 発言4(吉崎千秋参考人)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言4(吉崎千秋参考人)): 「その当時満州におりました開拓者並びに義勇隊員の総数は二十七万人おりました。これは満州におりました日本…」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満洲(中国東北部)、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、国立国会図書館
  38. 参議院議員吉川春子君提出日本政府が派遣した「満蒙開拓団」に関する質問に対する答弁書(内閣参質一六四第六四号)(参議院、答弁書第六四号「一の1及び四について」): 「昭和二十年度末において、義勇隊及び報国農場に居た者を合わせた満州開拓団在籍者は、二十四万千百六十名と…」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 外務省(日本)、満蒙開拓(満洲への農業移民)、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)
  39. 第132回国会 参議院 厚生委員会 第4号 発言57(佐野利昭政府委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言57(佐野利昭政府委員)): 「満州に入植した開拓団の在籍者数というのが、二十四万一千百六十名であり、その中で死亡された方が六万五千…」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 外務省(日本)、厚生省、満洲(中国東北部)、満蒙開拓(満洲への農業移民)、国立国会図書館
  40. 第22回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第5号 発言56(近藤安雄参考人)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言56(近藤安雄参考人)): 「終戦当時におりました義勇隊が大体三万人くらいでございますが、そのうち南満の重工業地帯、本渓湖、金州、…」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、国立国会図書館
  41. 第132回国会 参議院 厚生委員会 第4号 発言57(佐野利昭政府委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言57(佐野利昭政府委員)): 「義勇隊訓練所員として二万二千五百十八名であります」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、厚生省、国立国会図書館
  42. 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 発言4(吉崎千秋参考人)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言4(吉崎千秋参考人)): 「二十七万人の中の五五%の者が帰って参りまして」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 国立国会図書館
  43. 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 発言4(吉崎千秋参考人)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言4(吉崎千秋参考人)): 「二七%の約六万五千人の者が現地で死亡が確認されておるのでございます」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 国立国会図書館
  44. 第22回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第5号 発言56(近藤安雄参考人)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言56(近藤安雄参考人)): 「全部の義勇隊が八万六千人くらいでございますが」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、国立国会図書館
  45. 第80回国会 衆議院 社会労働委員会 第8号 発言9(川本敏美委員)・37(田口一男委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言9(川本敏美委員)): 「これが昭和二十年八月までに大体八万六千人余り送り出されておる」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 拓務省、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、国立国会図書館
  46. 第80回国会 衆議院 社会労働委員会 第8号 発言9(川本敏美委員)・37(田口一男委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言37(田口一男委員)): 「当時の国策によって八万六千有余名と言われておるのですが、旧満州国に送出をされたこれらの訓練生、義勇隊…」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満洲(中国東北部)、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、国立国会図書館
  47. 第80回国会 衆議院 社会労働委員会 第8号 発言9(川本敏美委員)・37(田口一男委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言9(川本敏美委員)): 「実際には、この青年義勇隊については昭和十二年十一月三十日の閣議決定があるわけです」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、国立国会図書館
  48. 第80回国会 衆議院 社会労働委員会 第8号 発言9(川本敏美委員)・37(田口一男委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言9(川本敏美委員)): 「政府においては、昭和十三年度より可及的多数の青年移民を実施し」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 国立国会図書館
  49. 第80回国会 衆議院 社会労働委員会 第8号 発言9(川本敏美委員)・37(田口一男委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言37(田口一男委員)): 「十二年の第一次先遣隊から十四年までの間の訓練生、義勇隊員」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、国立国会図書館
  50. 第80回国会 衆議院 社会労働委員会 第8号 発言9(川本敏美委員)・37(田口一男委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言37(田口一男委員)): 「第一次先遣隊の三百十九名が仮に十四年の閣議決定当時どういう状態に置かれておったか」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 国立国会図書館
  51. 第22回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第5号 発言56(近藤安雄参考人)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言56(近藤安雄参考人)): 「いわゆる二十カ年百万戸満州移民計画の重要な一部分として、昭和十三年に始まったのであります」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、国立国会図書館
  52. 満洲開拓第二期五箇年計画実行目標(大東亜省、コマ8): 「逐年遞增ノ方針ヲ採リ、合計一般開拓民、義勇隊開拓民ヲ含メ二十一一萬戶、靑年義勇隊十三萬人トス」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、大東亜省
  53. 満洲開拓第二期五箇年計画実行目標(大東亜省、コマ9): 「康〃〃九〇一二三一二、二〇、三〇、三〇、三七、」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、大東亜省
  54. 満洲開拓第二期五箇年計画実行目標(大東亜省、コマ9): 「康〃〃九〇一二三一二、二〇、三〇、三〇、三七、」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、大東亜省
  55. 満洲開拓第二期五箇年計画実行目標(大東亜省、コマ9): 「康〃〃九〇一二三一二、二〇、三〇、三〇、三七、」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、大東亜省
  56. 満洲開拓第二期五箇年計画実行目標(大東亜省、コマ9): 「康〃〃九〇一二三一二、二〇、三〇、三〇、三七、」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、大東亜省
  57. 満洲開拓第二期五箇年計画実行目標(大東亜省、コマ9): 「康〃〃九〇一二三一二、二〇、三〇、三〇、三七、」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、大東亜省
  58. 満洲開拓第二期五箇年計画実行目標(大東亜省、コマ9): 「計一三〇、〇〇〇」 原典 照合済み ↩
    関連: 大東亜省
  59. 第22回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第5号 発言56(近藤安雄参考人)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言56(近藤安雄参考人)): 「三分の二くらいの者が出ておりまして、病人と低年次の生徒が訓練所に残っておりました」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 国立国会図書館、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)
  60. 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)(拓務省拓北局、コマ29): 「其の總數約一萬七千名、團數は集團開拓團六十三、集合開拓團八、合計七十一箇團である」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、拓務省、拓務省拓北局
  61. 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)(拓務省拓北局、コマ29): 「徵兵檢査は現地に於て受け關東軍の部隊に入隊するのである」 原典 照合済み ↩
    関連: 関東軍、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、拓務省、拓務省拓北局
  62. 第132回国会 参議院 厚生委員会 第4号 発言57(佐野利昭政府委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言57(佐野利昭政府委員)): 「開拓団員として二十一万三千六百六十六名がいらっしゃるわけですけれども、その中にどの程度義勇隊員であっ…」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、厚生省、国立国会図書館
  63. 参議院議員吉川春子君外三名提出中国残留婦人の永住帰国の実現に関する質問に対する答弁書(内閣参質一二八第一号)(参議院、答弁書第一号「一の2について」): 「死亡者六万五千三百二十三名、帰還者十四万六千三百三十名、未引揚者二万九千五百七名が確認されており」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
  64. 参議院議員吉川春子君外三名提出中国残留婦人の永住帰国の実現に関する質問に対する答弁書(内閣参質一二八第一号)(参議院、答弁書第一号「一の2について」): 「帰還者十四万六千三百三十名」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
  65. 参議院議員吉川春子君外三名提出中国残留婦人の永住帰国の実現に関する質問に対する答弁書(内閣参質一二八第一号)(参議院、答弁書第一号「一の2について」): 「未引揚者二万九千五百七名が確認されており」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
  66. 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 発言4(吉崎千秋参考人)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言4(吉崎千秋参考人)): 「ただいまは死亡者が八万人に及んでおります。全体の三割が満州でなくなったということでございます」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満洲(中国東北部)、国立国会図書館
  67. 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 発言4(吉崎千秋参考人)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言4(吉崎千秋参考人)): 「これによって五千人の霊が慰められる」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、国立国会図書館
  68. 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 発言4(吉崎千秋参考人)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言4(吉崎千秋参考人)): 「ただ残った一般開拓者の七万五千人のことにつきましては」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 国立国会図書館
  69. 第104回国会 衆議院 予算委員会 第10号 発言109(川崎寛治委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言109(川崎寛治委員)): 「そこで開拓団の皆さん方は二十七万のうち八万亡くなります。関東軍は亡くなったのは四万です」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 関東軍、満蒙開拓(満洲への農業移民)、国立国会図書館
  70. 第22回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第5号 発言56(近藤安雄参考人)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言56(近藤安雄参考人)): 「そのうちで三千七十名くらいが現在はっきりわかっております確実な死亡者でございます」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、国立国会図書館
  71. 第22回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第5号 発言56(近藤安雄参考人)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言56(近藤安雄参考人)): 「未帰還の行方不明が三千名くらいございます」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓青少年義勇軍(満洲開拓青年義勇隊)、国立国会図書館
  72. 日本政府が派遣した「満蒙開拓団」に関する質問主意書(質問第六四号)(参議院、質問第六四号 前文): 「開拓団員とその家族からは、日本への引き揚げ途中に約十万人の死亡・行方不明者を出した」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)
  73. 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第5号 発言20(中山マサ委員)・21(山下春江政府委員)(国立国会図書館 国会会議録検索システム、発言21(山下春江政府委員)): 「開拓団におられました方、あるいは一般邦人の方等を合せまして、さようなお気の毒な状態に追い詰められて死…」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、国立国会図書館
  74. 政策レポート 中国残留邦人等に対する「新たな支援策」について(厚生労働省、本文 冒頭の説明): 「昭和20年当時、中国の東北地方(旧満州地区)には、開拓団など多くの日本人が居住していましたが、同年8月9日のソ連軍の対日参戦により、戦闘に巻き込まれたり、避難中の飢餓疾病等により多くの方が犠牲となりま…」 原典 照合済み ↩
    関連: ソ連軍、厚生労働省、満洲(中国東北部)、満蒙開拓(満洲への農業移民)
  75. 中国残留邦人等の状況(公表資料等)(厚生労働省、「中国残留邦人の状況」(1)): 「中国残留邦人の状況 (令和8年8月31日現在) (1) 残留日本人孤児の身元調査 孤児総数 2,818人 うち身元判明者 1,284人」 原典 照合済み ↩
    関連: 厚生労働省
  76. 中国残留邦人等の状況(公表資料等)(厚生労働省、「中国残留邦人の状況」(2)): 「帰国者の総数 6,732人 (家族を含めた総数20,919人) うち孤 児 2,557人 ( 〃 9,381人) うち婦人等 4,175人 ( 〃 11,538人)」 原典 照合済み ↩
    関連: 厚生労働省
  77. 参議院議員吉川春子君提出日本政府が派遣した「満蒙開拓団」に関する質問に対する答弁書(内閣参質一六四第六四号)(参議院、答弁書第六四号「一の1及び四について」): 「「現地で死亡した人数、行方不明者の人数」については、資料が保存されておらず、お答えすることは困難であ…」(要約が許されていない原典のため短く掲載) 原典 照合済み ↩
    関連: 外務省(日本)
  78. 引揚者在外事実調査票 三江省開拓団 長野 1/2(国立公文書館、目録情報): 「引揚者在外事実調査票 三江省開拓団 長野 1/2 請求番号: 平23厚労01593100 作成者: 厚生省引揚援護局未帰還調査部 年月日: 1956-00-00」 原典 照合済み ↩
    関連: 厚生省、国立公文書館、満蒙開拓(満洲への農業移民)
  79. 満洲開拓民ニ関スル根本方策ニ関スル件ヲ定ム(公文類聚・第六十三編・昭和十四年・第六十一巻)(国立公文書館、目録情報): 「満洲開拓民ニ関スル根本方策ニ関スル件ヲ定ム 請求番号: 類02239100-01100 作成者: 内閣 年月日: 1939-12-22」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、国立公文書館
  80. 中央官庁防空壕構築ニ関スル件〇現戦局下ニ於ケル満洲開拓政策緊急措置要綱〇瀬戸内海小型船舶決戦動員ノ準備ニ関スル件(公文雑纂・昭和二十年・第七巻)(国立公文書館、目録情報): 「現戦局下ニ於ケル満洲開拓政策緊急措置要綱〇瀬戸内海小型船舶決戦動員ノ準備ニ関スル件 請求番号: 纂03079100-04700 作成者: 内閣 年月日: 1945-07-02」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、国立公文書館
  81. 参議院議員池田恒雄提出満洲開拓移住民に関する質問に対する答弁書(公文類聚・第七十二編)(国立公文書館、目録情報): 「参議院議員池田恒雄提出満洲開拓移住民に関する質問に対する答弁書 請求番号: 類03093100-00200 作成者: 内閣 年月日: 1947-10-14」 原典 照合済み ↩
    関連: 満蒙開拓(満洲への農業移民)、国立公文書館

主張と計算の根拠(57件)

本文の「根拠」の印から、ここに移る。主張ごとに、材料の事実(番号は上の脚注)と、計算の式を載せた。式は公開前の検査で再計算し、データの集計はスクリプトを再実行して、記事の値と一致することを確かめた。

  1. 満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数字を比べ直す

    見出し・言い切りの強さ: 言い切り ↩

    本文側の主張 根拠10 根拠16 根拠46 根拠55

  2. 1941年9月末の集団開拓団の入植総戸数25,923戸は第1期(1937〜41年度)の目標10万戸の約26%だが、計画が始まる前(1936年度まで)の第1〜5次の分が入っているので達成率とはみなせず、その分は史料の間で戸と名が食い違うので、どちらも戸とみなして約2,800戸を引いた場合に限れば、1937年度以降の分は目標の約23%になり、集合・分散開拓民と最後の半年の入植を含まないので、計画前の分が約2,800戸を超えなければ第1期の達…

    比率・言い切りの強さ: 条件付き ↩

    根拠の事実 [20] [25] [3] [4] [28] [9] [2] [26] [27]

    計算
    • [3] + [4] = 2,800戸 (D2p)
      第1〜4次は1940年の資料の「約千八百戶」(1937年の資料は千八百名、1941年の資料は約一千八百名)、第5次は1937年の資料の送出1,000戸(同じ資料の入植地別の内訳と1941年の資料は1,000名)。概数
    • [20] - D2p(2,800戸) = 23,123戸 (D2a)
    • D2a(23,123戸) / [9] = 0.2312(比) (D2b)

    比べる数字の違い 数え方・対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 25,923戸には計画が始まる前(1936年度まで)の第1〜5次の9集団の分が入っているが、その規模は史料の間で戸と名が食い違っていて、何戸を引けばよいかは決められず、第1〜4次の約1,800と第5次の1,000をどちらも戸とみなして約2,800戸を引いた場合に限って、1937年度以降の第6〜10次の分は約2万3千戸、第1期(1937〜41年度)の目標10万戸の約23%となり、名が人数で戸数がそれより少なければ引きすぎで値は低めに出るので、計画前の分が約2,800戸を超えない…

    比率の読み方 下限の目安

    本文側の主張 根拠10 根拠11

  3. 青少年義勇軍の1938〜41年度の送出は、計画12万人に対して、1941年10月までの渡満51,853名で見た約43%が下限で、採用者56,826人で見た約47%は、1941年度の採用がおおむね済んでいたと読めば上限の目安になるが、締め切りが書かれていないので確定せず、近藤証言の約7万人で見た約58%も、7万人が1943年ごろまでの渡満の累計か、その時に満洲にいた人数かが決まらないので、累計と読む場合に限った目安であり、約8万6千人を1…

    範囲・言い切りの強さ: 条件付き ↩

    根拠の事実 1938年から1941年10月までに渡満した義勇隊は計51,853名。(原典: 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)。本文に脚注の無い事実) 1941年までの義勇軍採用者総数は56,826人。(原典: 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)。本文に脚注の無い事実) 1941年11月刊の同書は、1941年度には義勇軍の応募者が大いに増え、中隊を編成できなかった府県はわずか数県になったと、済んだこととして書いている。採用の締め切りの時期は書いていない。(原典: 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)。本文に脚注の無い事実) [30] [29] [44] [45] [11] [18] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [47] [48] [49] [50] [51]

    計算
    • [11] * 4 = 120,000人 (D4)
    • D4(120,000人) + [18] * 3 / 5 = 198,000人 (D4c)
    • D4(120,000人) + [18] * 4 / 5 = 224,000人 (D4d)
    • D4(120,000人) + [53].low + [54].low + [55].low = 182,000人 (D4t3)
    • D4(120,000人) + [58] - [56].low - [57].low = 183,000人 (D4t3h)
      合計13万人から1945・46年度の千の位までの数を引いた、1942〜44年度分の最大値(千の位より下の数字の和が合計と一致するとみなす)。片側の値どうしの差なので、増加量の推定には使わず、計画の幅の端としてだけ使う
    • D4(120,000人) + [58] - [57].low = 213,000人 (D4t4)
      合計13万人から1946年度の千の位までの数を引いた、1942〜45年度分の最大値
    • 1938年から1941年10月までに渡満した義勇隊は計51,853名。(原典: 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)。本文に脚注の無い事実) / D4(120,000人) = 0.4321(比) (D5)
    • 1941年までの義勇軍採用者総数は56,826人。(原典: 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)。本文に脚注の無い事実) / D4(120,000人) = 0.4736(比) (D6)
    • [30] / D4(120,000人) = 0.5833(比) (D5k)
      F40b は1943年ごろの義勇隊の約7万人(「くらい」の概数)で、問い(F40q)は「現在何万いるか」。渡満の累計と読む場合に限り、1942年3月までの渡満はこれ以下で、この比は4年度分の送出の達成率の上限の目安になる。その時に満洲にいた人数と読めば、渡満の累計は7万人を超えうるので上限にならない
    • [44] / D4c(198,000人) = 0.4343(比) (D7c)
    • [44] / D4d(224,000人) = 0.3839(比) (D7d)
    • [44] / D4t3(182,000人) = 0.4725(比) (D7t3)

    比べる数字の違い 数え方・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 計画は送出の人数、実績は渡満と採用の人数で、この違いを前提に比べると、1938〜41年度の4年度分の計画12万人に対して、1941年10月までの渡満51,853名は約43%で、1941年11月から1942年3月までの渡満を含まないので、4年度分の達成率の下限である

    本文側の主張 根拠16 根拠17 根拠18 根拠30 根拠31 根拠32 根拠34 根拠35 根拠36 根拠37 根拠38

  4. 死者の割合は、分子と分母が同じ調査表の数字に限ると、確認された死者だけの27.1%から、未引揚者が全員亡くなっていた場合の39.3%までで、ほかの資料の分子や分母を交差させた割合は範囲と時点がずれるので、この幅には含めず、感度の確認にだけ使う

    範囲・言い切りの強さ: 条件付き ↩

    根拠の事実 [63] [65] [33]

    計算
    • [63] / [33] = 0.2709(比) (D20)
    • [63] + [65] = 94,830人 (D26)
    • D26(94,830人) / [33] = 0.3932(比) (D27)

    比べる数字の違い 対象の範囲が違う数字を比べている。本文の説明: 調査表の在籍者に限れば、死者の割合は、確認された死者だけの27.1%から、未引揚者29,507名が全員亡くなっていた場合の39.3%までの範囲にある

    本文側の主張 根拠46 根拠47

  5. 戦後の開拓団・義勇隊の人数と死者数は、国会での政府の答弁と参考人・議員の発言、政府の答弁書と質問主意書を通した間接的な数字で、大もとの1953年の外務省調査表と1966年の『満洲開拓史』は今回読めていない

    不在・言い切りの強さ: 言い切り ↩

    根拠の事実 [33] [39] 同参考人は1953年の外務省調査として、帰着14万6千人、死亡確認65,323人、未引揚26,587…(原典: 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 …。本文に脚注の無い事実) [34] [37] [44] [45] [72]

    本文側の主張 根拠55 根拠57

  6. 1935年度の第4次までの4回を、1937年の資料は計1,800名と人数で書き、1940年の同省資料は「約千八百戸」と戸数で書いている

    定義・言い切りの強さ: 言い切り ↩

    根拠の事実 [2] [3]

  7. 満洲国の人口を約3,000万人とし、20年後の5,000万人の1割にあたる500万人、100万戸を送り込むという計算で、500万人を100万戸で割ると、計画は1戸5人を前提にしている

    定義・言い切りの強さ: 言い切り ↩

    根拠の事実 [7] [8]

    計算
    • [7] / [8] = 5persons/households (D9)
  8. 集合開拓民の現在人口は9,158名、分散開拓民(いわゆる自由移民を含む)は10,699人で、一般開拓民の人口は合わせて92,021人になる

    値・言い切りの強さ: 言い切り ↩

    根拠の事実 [21] [22] [23]

    計算
  9. 第1期の目標は戸数で決められているので、比べられるのは戸数である

    定義・言い切りの強さ: 言い切り ↩

    根拠の事実 [9] [10]

  10. 25,923戸には計画が始まる前(1936年度まで)の第1〜5次の9集団の分が入っているが、その規模は史料の間で戸と名が食い違っていて、何戸を引けばよいかは決められず、第1〜4次の約1,800と第5次の1,000をどちらも戸とみなして約2,800戸を引いた場合に限って、1937年度以降の第6〜10次の分は約2万3千戸、第1期(1937〜41年度)の目標10万戸の約23%となり、名が人数で戸数がそれより少なければ引きすぎで値は低めに出るの…

    比率・言い切りの強さ: 条件付き ↩

    根拠の事実 [20] [25] [3] [4] [28] [9] [10] [2] [26] [27]

    計算
    • [3] + [4] = 2,800戸 (D2p)
      第1〜4次は1940年の資料の「約千八百戶」(1937年の資料は千八百名、1941年の資料は約一千八百名)、第5次は1937年の資料の送出1,000戸(同じ資料の入植地別の内訳と1941年の資料は1,000名)。概数
    • [20] - D2p(2,800戸) = 23,123戸 (D2a)
    • D2a(23,123戸) / [9] = 0.2312(比) (D2b)

    比べる数字の違い 数え方・対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 25,923戸には計画が始まる前(1936年度まで)の第1〜5次の9集団の分が入っているが、その規模は史料の間で戸と名が食い違っていて、何戸を引けばよいかは決められず、第1〜4次の約1,800と第5次の1,000をどちらも戸とみなして約2,800戸を引いた場合に限って、1937年度以降の第6〜10次の分は約2万3千戸、第1期(1937〜41年度)の目標10万戸の約23%となり、名が人数で戸数がそれより少なければ引きすぎで値は低めに出るので、計画前の分が約2,800戸を超えない…

    比率の読み方 下限の目安

  11. 計画前の分を引かずに25,923戸を10万戸で割った約26%は、分子に計画前の4年余りの入植が入っていて分母の期間と合わないので、第1期の達成率とはみなせず、達成率は上の条件つきの下限からしか決められない

    比率・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [20] [9] [25]

    計算
    • [20] / [9] = 0.2592(比) (D2)

    比べる数字の違い 数え方・対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 計画前の分を引かずに25,923戸を10万戸で割った約26%は、分子に計画前の4年余りの入植が入っていて分母の期間と合わないので、第1期の達成率とはみなせず、達成率は上の条件つきの下限からしか決められない

    比率の読み方 達成率ではない

  12. 集合・分散開拓民の戸数を載せた表は自動OCRが崩れていて読めず、人数の9,158名と10,699人を戸数として足すこともできないので、第1期全体の達成率は、この資料からは、計画前の分を戸として引いた場合の約23%という下限より先は決められない

    不在・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [22] [23]

    計算
    • D2a(23,123戸) / [9] = 0.2312(比) (D2b)
    • [20] - D2p(2,800戸) = 23,123戸 (D2a)
    • [3] + [4] = 2,800戸 (D2p)
      第1〜4次は1940年の資料の「約千八百戶」(1937年の資料は千八百名、1941年の資料は約一千八百名)、第5次は1937年の資料の送出1,000戸(同じ資料の入植地別の内訳と1941年の資料は1,000名)。概数
  13. 1943年の第2期計画は、第1期と通算で30万戸、第2期の5年で22万戸としているので、差し引くと第1期の分を8万戸と数えていたことになり、第1期の目標10万戸の8割にあたる

    比率・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [16] [17] [9]

    計算
    • [16] - [17] = 80,000戸 (D3)
    • D3(80,000戸) / [9] = 0.8(比) (D3b)

    比べる数字の違い 定義が違う数字を比べている。本文の説明: この8万戸が実績なのか見込みなのかは文書に書かれておらず、1941年9月の集団開拓団の25,923戸との差を、集合・分散開拓民、義勇隊開拓団、1941年度の残り半年のどれが埋めたのかは、今回の資料では確かめられない

  14. この8万戸が実績なのか見込みなのかは文書に書かれておらず、1941年9月の集団開拓団の25,923戸との差を、集合・分散開拓民、義勇隊開拓団、1941年度の残り半年のどれが埋めたのかは、今回の資料では確かめられない

    不在・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [20] [16] [17]

    計算
  15. 戸と人の換算に使える根拠は計画の前提の1戸5人だけで、1941年9月の集団開拓団の現在人口72,164人を入植総戸数25,923戸で割った1戸あたり2.78人は、分子が今いる人口、分母がこれまでに入植した戸数の累計で、本隊を3か年に分けて送っている途中の団を含む可能性があるので、世帯の大きさとはみなせず、計画の戸数を人数に直すのには使わない

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [21] [20] [7] [8] [24]

    計算
    • [21] / [20] = 2.78persons/households (D8)
      v4: 換算には使わない。分子は1941年9月の人口(時点)、分母はそれまでに入植した戸数(累計)で、本隊を3か年に分けて送る途中の団(F14s)を含むので、世帯規模の推定にならない
    • [7] / [8] = 5persons/households (D9)

    比べる数字の違い 対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 戸と人の換算に使える根拠は計画の前提の1戸5人だけで、1941年9月の集団開拓団の現在人口72,164人を入植総戸数25,923戸で割った1戸あたり2.78人は、分子が今いる人口、分母がこれまでに入植した戸数の累計で、本隊を3か年に分けて送っている途中の団を含む可能性があるので、世帯の大きさとはみなせず、計画の戸数を人数に直すのには使わない

  16. 計画は送出の人数、実績は渡満と採用の人数で、この違いを前提に比べると、1938〜41年度の4年度分の計画12万人に対して、1941年10月までの渡満51,853名は約43%で、1941年11月から1942年3月までの渡満を含まないので、4年度分の達成率の下限である

    比率・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [11] 1938年から1941年10月までに渡満した義勇隊は計51,853名。(原典: 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)。本文に脚注の無い事実)

    計算

    比べる数字の違い 数え方・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 計画は送出の人数、実績は渡満と採用の人数で、この違いを前提に比べると、1938〜41年度の4年度分の計画12万人に対して、1941年10月までの渡満51,853名は約43%で、1941年11月から1942年3月までの渡満を含まないので、4年度分の達成率の下限である

    比率の読み方 下限の目安

  17. 1941年までの採用者56,826人は計画の約47%で、資料は1941年度について、応募者が大いに増え、中隊を編成できなかった府県はわずか数県になったと済んだこととして書いているので、1941年度の採用はおおむね終わっていたとも読め、そう読めば1942年3月までの渡満は採用者の数を超えないので、47%は4年度分の送出の達成率の上限の目安になるが、資料は年度の途中の11月の刊行で採用の締め切りを書いておらず、年度末までに採用と渡満が続いて…

    比率・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 1941年までの義勇軍採用者総数は56,826人。(原典: 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)。本文に脚注の無い事実) 1941年11月刊の同書は、1941年度には義勇軍の応募者が大いに増え、中隊を編成できなかった府県はわずか数県になったと、済んだこととして書いている。採用の締め切りの時期は書いていない。(原典: 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)。本文に脚注の無い事実) 1938年から1941年10月までに渡満した義勇隊は計51,853名。(原典: 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)。本文に脚注の無い事実) [11]

    計算

    比べる数字の違い 数え方・定義が違う数字を比べている。本文の説明: 1941年までの採用者56,826人は計画の約47%で、資料は1941年度について、応募者が大いに増え、中隊を編成できなかった府県はわずか数県になったと済んだこととして書いているので、1941年度の採用はおおむね終わっていたとも読め、そう読めば1942年3月までの渡満は採用者の数を超えないので、47%は4年度分の送出の達成率の上限の目安になるが、資料は年度の途中の11月の刊行で採用の締め切りを書いておらず、年度末までに採用と渡満が続いていた場合には渡満の数は56,826人を超…

    比率の読み方 上限の目安

  18. 近藤参考人の、1943年ごろに渡満した義勇隊が約7万人という証言は、関東軍に義勇隊が「現在何万いるか」と聞かれたときの答えで、渡満の累計とも、その時に満洲にいた人数とも読めるので、累計と読む場合に限り、1942年3月までの渡満はこれを超えず、4年度分の送出の達成率は約58%を超えないという目安になるが、その時にいた人数と読めば、関東軍への入営や死亡で抜けた人の分だけ渡満の累計は7万人を超えうるので上限にならず、この証言からは4年度分の達…

    比率・言い切りの強さ: 条件付き ↩

    根拠の事実 [30] [29] [61] 1938年から1941年10月までに渡満した義勇隊は計51,853名。(原典: 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)。本文に脚注の無い事実) [11]

    計算
    • [11] * 4 = 120,000人 (D4)
    • 1938年から1941年10月までに渡満した義勇隊は計51,853名。(原典: 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)。本文に脚注の無い事実) / D4(120,000人) = 0.4321(比) (D5)
    • [30] / D4(120,000人) = 0.5833(比) (D5k)
      F40b は1943年ごろの義勇隊の約7万人(「くらい」の概数)で、問い(F40q)は「現在何万いるか」。渡満の累計と読む場合に限り、1942年3月までの渡満はこれ以下で、この比は4年度分の送出の達成率の上限の目安になる。その時に満洲にいた人数と読めば、渡満の累計は7万人を超えうるので上限にならない

    比べる数字の違い 数え方・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 近藤参考人の、1943年ごろに渡満した義勇隊が約7万人という証言は、関東軍に義勇隊が「現在何万いるか」と聞かれたときの答えで、渡満の累計とも、その時に満洲にいた人数とも読めるので、累計と読む場合に限り、1942年3月までの渡満はこれを超えず、4年度分の送出の達成率は約58%を超えないという目安になるが、その時にいた人数と読めば、関東軍への入営や死亡で抜けた人の分だけ渡満の累計は7万人を超えうるので上限にならず、この証言からは4年度分の達成率の上限は決められない

    比率の読み方 達成率ではない

  19. これは計画の毎年3万人と同じ数字で、「理想といたしましては」が毎年3万人の送出にまでかかると読めば、実績ではなく制度の建前の説明になり、中隊の編成だけにかかると読めば、毎年3万人を送り出したと過去の事実として述べたことになって、1941年10月までの渡満51,853名という記録と合わず、証言の正確さの問題になるが、どちらに読んでも、この記録の代わりには使えない

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [31] [11] 1938年から1941年10月までに渡満した義勇隊は計51,853名。(原典: 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)。本文に脚注の無い事実)

    比べる数字の違い 数え方・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: これは計画の毎年3万人と同じ数字で、「理想といたしましては」が毎年3万人の送出にまでかかると読めば、実績ではなく制度の建前の説明になり、中隊の編成だけにかかると読めば、毎年3万人を送り出したと過去の事実として述べたことになって、1941年10月までの渡満51,853名という記録と合わず、証言の正確さの問題になるが、どちらに読んでも、この記録の代わりには使えない

  20. 表1 終戦前後の開拓関係者の人数(対象・時点・数え方が違うので、差をそのまま誤差や死者の数とは言えない)

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [34] [33] [38] [39] [37] [40] [41]

    比べる数字の違い 対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 表1 終戦前後の開拓関係者の人数(対象・時点・数え方が違うので、差をそのまま誤差や死者の数とは言えない)

    表の行 [34] [33] [38] [39] [37] [40] [41]

  21. 三つの総数は範囲と時点が違う数字で、22.5万人と27万人はどちらも丸めた数なので差も概数でしか言えず、241,160名は22.5万人より約1.6万人多く、27万人は241,160名より約3万人多いが、この差だけからどれかが誤りだとは言えない

    差・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [33] [34] [37]

    計算

    比べる数字の違い 対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 表1 終戦前後の開拓関係者の人数(対象・時点・数え方が違うので、差をそのまま誤差や死者の数とは言えない)

  22. 吉崎参考人が27万人の内訳として挙げた帰着14万6千人、死亡65,323人、未引揚26,587人を足すと約23.8万人で、帰着と27万人が丸めた数なので正確な人数は決められないが、27万人には3万人あまり足りず、27万人の根拠はこの発言からは確かめられない

    差・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [37] 同参考人は1953年の外務省調査として、帰着14万6千人、死亡確認65,323人、未引揚26,587…(原典: 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 …。本文に脚注の無い事実) 同参考人は、日本に生きてたどり着いた者を14万6千人とした。(原典: 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 …。本文に脚注の無い事実) 同参考人は、まだ引き揚げてこない者を26,587人とした。(原典: 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 …。本文に脚注の無い事実)

    計算

    比べる数字の違い 対象の範囲・定義が違う数字を比べている。本文の説明: 吉崎参考人が27万人の内訳として挙げた帰着14万6千人、死亡65,323人、未引揚26,587人を足すと約23.8万人で、帰着と27万人が丸めた数なので正確な人数は決められないが、27万人には3万人あまり足りず、27万人の根拠はこの発言からは確かめられない

  23. 吉崎参考人は続けて「二十七万人の中の五五%」が帰り、「二七%の約六万五千人」の死亡が確認されたと述べたが、65,323人を同じ発言の27万人で割ると24.2%で、本人の挙げた「二七%」という数字とは合わない

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 同参考人は1953年の外務省調査として、帰着14万6千人、死亡確認65,323人、未引揚26,587…(原典: 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 …。本文に脚注の無い事実) [37] [43]

    計算

    比べる数字の違い 対象の範囲・定義が違う数字を比べている。本文の説明: 吉崎参考人は続けて「二十七万人の中の五五%」が帰り、「二七%の約六万五千人」の死亡が確認されたと述べたが、65,323人を同じ発言の27万人で割ると24.2%で、本人の挙げた「二七%」という数字とは合わない

  24. 65,323人がちょうど27%になる母数は241,937人で、四捨五入して27%になる母数の範囲は237,538人から246,502人である

    値・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 同参考人は1953年の外務省調査として、帰着14万6千人、死亡確認65,323人、未引揚26,587…(原典: 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 …。本文に脚注の無い事実) [43]

    計算
  25. この範囲に調査表の241,160名は入り、27万人は入らないが、吉崎参考人の内訳の合計約23.8万人は範囲の下の端の237,538人とほぼ同じで、帰着の14万6千人が丸めた数なので、入るかどうかは決められない

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [33] [37]

    計算

    比べる数字の違い 対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 65,323人がちょうど27%になる母数は241,937人で、四捨五入して27%になる母数の範囲は237,538人から246,502人である

  26. したがって「二七%」は、約24万人を母数にすれば四捨五入で合うが、同じ発言は「二十七万人の中の」と母数を示しているので、27万人を母数にして計算を誤った可能性も残り、この算術だけではどちらの母数で計算したかは決められない

    不在・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [43] [42] [33] [37]

    計算
  27. 一方「五五%」は、14万6千人を27万人で割ると54.1%、241,160名で割ると60.5%で、どちらの母数を前提にしてもぴったりは出ないが、同じ発言の後半にある引揚者の「十五万幾ら」を27万人で割ると、15万ちょうどでも55.6%で、五五%に近く、五五%は27万人を母数にしてこちらの数から出した比とも読める

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [42] 同参考人は、日本に生きてたどり着いた者を14万6千人とした。(原典: 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 …。本文に脚注の無い事実) 同参考人は、同じ発言の後半で、引き揚げてきた開拓者が15万いくらいると述べた。(原典: 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 …。本文に脚注の無い事実) [37] [33]

    計算

    比べる数字の違い 対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 一方「五五%」は、14万6千人を27万人で割ると54.1%、241,160名で割ると60.5%で、どちらの母数を前提にしてもぴったりは出ないが、同じ発言の後半にある引揚者の「十五万幾ら」を27万人で割ると、15万ちょうどでも55.6%で、五五%に近く、五五%は27万人を母数にしてこちらの数から出した比とも読める

  28. この手がかりから言えるのは、吉崎証言の27万人・五五%・二七%が一つの母数では互いに合わないことまでで、27万人の出所も、どちらの母数が正しいかも決められない

    不在・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [37] [43] [42]

  29. 渡満した義勇隊は、拓北局の記録によれば1938年から1941年10月までに51,853名で、近藤参考人の1943年ごろの約7万人は、渡満の累計と読めば51,853名から増えた数として矛盾せず、その時に満洲にいた人数と読んでも、渡満の累計はそれ以上になるので、どちらに読んでも51,853名とは矛盾しない

    推移・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 1938年から1941年10月までに渡満した義勇隊は計51,853名。(原典: 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)。本文に脚注の無い事実) [30] [29]

    比べる数字の違い 定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 渡満した義勇隊は、拓北局の記録によれば1938年から1941年10月までに51,853名で、近藤参考人の1943年ごろの約7万人は、渡満の累計と読めば51,853名から増えた数として矛盾せず、その時に満洲にいた人数と読んでも、渡満の累計はそれ以上になるので、どちらに読んでも51,853名とは矛盾しない

  30. 一方、約8万6千人について、近藤参考人は期間も数え方も示していないが、1977年の川本委員は終戦までに送り出した総数として述べており、そう読めば51,853名・約7万人に続く数として矛盾しないが、川本委員も出典を示しておらず、同じ日の田口委員は伝聞として引いているので、採用者や在籍した者の総数である可能性も残り、同じ系列の数字だとは確かめられない

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [44] [45] [46] 1938年から1941年10月までに渡満した義勇隊は計51,853名。(原典: 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)。本文に脚注の無い事実) [30]

    比べる数字の違い 定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 一方、約8万6千人について、近藤参考人は期間も数え方も示していないが、1977年の川本委員は終戦までに送り出した総数として述べており、そう読めば51,853名・約7万人に続く数として矛盾しないが、川本委員も出典を示しておらず、同じ日の田口委員は伝聞として引いているので、採用者や在籍した者の総数である可能性も残り、同じ系列の数字だとは確かめられない

  31. 約8万6千人を、川本委員の発言のとおり終戦までに送り出した総数と読むなら、1938〜41年度の4年度分だけの計画12万人と比べた約72%は、分子が終戦まで、分母が1941年度までの4年度分で期間が合わず、終戦までの計画は12万人より大きいので、終戦までの達成率の上限にすぎない

    比率・言い切りの強さ: 条件付き ↩

    根拠の事実 [44] [45] [11]

    計算
    • [11] * 4 = 120,000人 (D4)
    • [44] / D4(120,000人) = 0.7167(比) (D7)

    比べる数字の違い 数え方・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 約8万6千人を、川本委員の発言のとおり終戦までに送り出した総数と読むなら、1938〜41年度の4年度分だけの計画12万人と比べた約72%は、分子が終戦まで、分母が1941年度までの4年度分で期間が合わず、終戦までの計画は12万人より大きいので、終戦までの達成率の上限にすぎない

    比率の読み方 上限の目安

  32. 約8万6千人を終戦までに送り出した総数とすれば、第2期(1942〜46年度)の青年義勇隊の目標13万人を足した1938〜46年度の計画25万人と比べると約34%で、分母に終戦より後の1年半余りの分が入っているので、こちらは下限である

    比率・言い切りの強さ: 条件付き ↩

    根拠の事実 [44] [45] [11] [18]

    計算
    • [11] * 4 = 120,000人 (D4)
    • D4(120,000人) + [18] = 250,000人 (D4b)
    • [44] / D4b(250,000人) = 0.344(比) (D7b)

    比べる数字の違い 数え方・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 約8万6千人を終戦までに送り出した総数とすれば、第2期(1942〜46年度)の青年義勇隊の目標13万人を足した1938〜46年度の計画25万人と比べると約34%で、分母に終戦より後の1年半余りの分が入っているので、こちらは下限である

    比率の読み方 下限の目安

  33. 読めた千の位までの五つの数を足すと12.9万人で、合計の13万人を超えないので、読めた数字は合計と矛盾せず、千の位より下の数字は五つの年度を合わせて千人分になると読める

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [53] [54] [55] [56] [57] [58]

    計算
    • [53].low + [54].low + [55].low + [56].low + [57].low = 129,000人 (D24s)
      年次計画表で読める千の位までの数の和。千の位より下(読めない)は含まない
  34. この表の数字を年度の順に当てはめると、1944年度末までの計画は、第1期の12万人に1942〜44年度の分を足して18.2万〜18.3万人で、約8万6千人はその約47%にあたり、終戦の時点までの計画はこれより大きいので、年次計画表で読める数字からは、終戦までの達成率は約47%を超えないと読める

    比率・言い切りの強さ: 条件付き ↩

    根拠の事実 [44] [45] [11] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58]

    計算
    • [11] * 4 = 120,000人 (D4)
    • D4(120,000人) + [53].low + [54].low + [55].low = 182,000人 (D4t3)
    • D4(120,000人) + [58] - [56].low - [57].low = 183,000人 (D4t3h)
      合計13万人から1945・46年度の千の位までの数を引いた、1942〜44年度分の最大値(千の位より下の数字の和が合計と一致するとみなす)。片側の値どうしの差なので、増加量の推定には使わず、計画の幅の端としてだけ使う
    • [44] / D4t3(182,000人) = 0.4725(比) (D7t3)
    • [44] / D4t3h(183,000人) = 0.4699(比) (D7t3h)

    比べる数字の違い 数え方・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: この表の数字を年度の順に当てはめると、1944年度末までの計画は、第1期の12万人に1942〜44年度の分を足して18.2万〜18.3万人で、約8万6千人はその約47%にあたり、終戦の時点までの計画はこれより大きいので、年次計画表で読める数字からは、終戦までの達成率は約47%を超えないと読める

    比率の読み方 上限の目安

  35. 同じ表で1945年度末までの計画は多くとも21.3万人で、約8万6千人はその約40%にあたり、分母が終戦後の7か月分を含むので下限であり、年次計画表で読める数字からは、終戦までの達成率は約40〜47%のあいだと読める

    比率・言い切りの強さ: 条件付き ↩

    根拠の事実 [44] [45] [11] [58] [57]

    計算
    • [11] * 4 = 120,000人 (D4)
    • D4(120,000人) + [58] - [57].low = 213,000人 (D4t4)
      合計13万人から1946年度の千の位までの数を引いた、1942〜45年度分の最大値
    • [44] / D4t4(213,000人) = 0.4038(比) (D7t4)
    • [44] / D4t3(182,000人) = 0.4725(比) (D7t3)
    • D4(120,000人) + [53].low + [54].low + [55].low = 182,000人 (D4t3)

    比べる数字の違い 数え方・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 同じ表で1945年度末までの計画は多くとも21.3万人で、約8万6千人はその約40%にあたり、分母が終戦後の7か月分を含むので下限であり、年次計画表で読める数字からは、終戦までの達成率は約40〜47%のあいだと読める

    比率の読み方 下限の目安

  36. 年次計画表によらず、第2期の13万人を5年度に均等に割り振ったとすれば、1944年度末までの計画は19.8万人、1945年度末までの計画は22.4万人で、約8万6千人はそれぞれの約43%と約38%にあたる

    比率・言い切りの強さ: 条件付き ↩

    根拠の事実 [44] [45] [11] [18]

    計算
    • [11] * 4 = 120,000人 (D4)
    • D4(120,000人) + [18] * 3 / 5 = 198,000人 (D4c)
    • D4(120,000人) + [18] * 4 / 5 = 224,000人 (D4d)
    • [44] / D4c(198,000人) = 0.4343(比) (D7c)
    • [44] / D4d(224,000人) = 0.3839(比) (D7d)

    比べる数字の違い 数え方・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 年次計画表によらず、第2期の13万人を5年度に均等に割り振ったとすれば、1944年度末までの計画は19.8万人、1945年度末までの計画は22.4万人で、約8万6千人はそれぞれの約43%と約38%にあたる

    比率の読み方 達成率ではない

  37. ただし資料は年度別の割合を年々増やす方針を示しており、年次計画表で読める1944年度末までの計画は多くとも18.3万人で、均等割りの19.8万人より少ないので、均等割りは原文の方針と合わない仮定で、その場合の43%は終戦までの達成率の上限にならず、38〜43%は仮定を置いた場合の目安にとどまる

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [52] [58] [56] [57] [18] [11]

    計算
    • D4(120,000人) + [58] - [56].low - [57].low = 183,000人 (D4t3h)
      合計13万人から1945・46年度の千の位までの数を引いた、1942〜44年度分の最大値(千の位より下の数字の和が合計と一致するとみなす)。片側の値どうしの差なので、増加量の推定には使わず、計画の幅の端としてだけ使う
    • [11] * 4 = 120,000人 (D4)
    • D4(120,000人) + [18] * 3 / 5 = 198,000人 (D4c)
    • [44] / D4c(198,000人) = 0.4343(比) (D7c)
    • [44] / D4d(224,000人) = 0.3839(比) (D7d)
    • D4(120,000人) + [18] * 4 / 5 = 224,000人 (D4d)

    比べる数字の違い 定義が違う数字を比べている。本文の説明: ただし資料は年度別の割合を年々増やす方針を示しており、年次計画表で読める1944年度末までの計画は多くとも18.3万人で、均等割りの19.8万人より少ないので、均等割りは原文の方針と合わない仮定で、その場合の43%は終戦までの達成率の上限にならず、38〜43%は仮定を置いた場合の目安にとどまる

  38. また、川本委員の発言は8万6千人余りを何年から数えたかを示しておらず、1937年の第一次先遣隊などが含まれている場合、1938年度以降の計画に対する達成率はここまでの値よりわずかに低くなり、原文で人数の分かる第一次先遣隊の319名だけなら、年次計画表で読める分母の18.2万〜21.3万人に対して差は約0.2ポイント以下で、約40〜47%という丸めた幅は変わらないが、1937年にほかに送られた人がいたかどうかとその人数は、今回の資料からは…

    比率・言い切りの強さ: 条件付き ↩

    根拠の事実 [45] [47] [48] [49] [50] [51] [44]

    計算
    • D4(120,000人) + [53].low + [54].low + [55].low = 182,000人 (D4t3)
    • [11] * 4 = 120,000人 (D4)
    • D4(120,000人) + [58] - [57].low = 213,000人 (D4t4)
      合計13万人から1946年度の千の位までの数を引いた、1942〜45年度分の最大値
    • [44] / D4t3(182,000人) = 0.4725(比) (D7t3)
    • [44] / D4t4(213,000人) = 0.4038(比) (D7t4)
    • [50] / D4t3(182,000人) = 0.0018(比) (D7p3)
      第一次先遣隊の319名が約8万6千人に含まれていた場合に、1944年度末までの計画の最小値(D4t3)に対する比が下がる幅
    • [50] / D4t4(213,000人) = 0.0015(比) (D7p4)
      同じく、1945年度末までの計画の最大値(D4t4)に対する比が下がる幅

    比べる数字の違い 数え方・対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: また、川本委員の発言は8万6千人余りを何年から数えたかを示しておらず、1937年の第一次先遣隊などが含まれている場合、1938年度以降の計画に対する達成率はここまでの値よりわずかに低くなり、原文で人数の分かる第一次先遣隊の319名だけなら、年次計画表で読める分母の18.2万〜21.3万人に対して差は約0.2ポイント以下で、約40〜47%という丸めた幅は変わらないが、1937年にほかに送られた人がいたかどうかとその人数は、今回の資料からは分からない

    比率の読み方 達成率ではない

  39. したがって約3万人は、在満した義勇隊の全員ではなく、訓練所に属していた訓練生の数と読める

    定義・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [40] [59] [30] [60] [61] [19]

  40. 約8万6千人は、近藤参考人が期間も数え方も言わず、1977年の川本委員が出典を示さずに終戦までに送り出した総数とした数、約3万人は終戦時に訓練所に属していた時点の数で、その差を死者や行方不明者の数とはみなせず、差の中身はこの二つの数字からは決められない

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [44] [45] [40] [60] [62]

    比べる数字の違い 数え方・対象の範囲・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 約8万6千人は、近藤参考人が期間も数え方も言わず、1977年の川本委員が出典を示さずに終戦までに送り出した総数とした数、約3万人は終戦時に訓練所に属していた時点の数で、その差を死者や行方不明者の数とはみなせず、差の中身はこの二つの数字からは決められない

  41. 調査表の訓練所員22,518名は、約3万人と同じく訓練所に属していた義勇隊を数えたものとも読め、そう読めば、出所(帰国者の情報による1953年の調査表と、元訓練本部総務部長の証言)も時点(「昭和二十年度末」と終戦当時)も違う、同じ集団についての二つの数字が食い違っていることになるが、調査表がいつの時点の誰を訓練所員として数えたかは答弁から分からないので、どちらが実際に近いかは決められず、『満洲開拓史』の義勇隊関係約5万8千人は、訓練所の…

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [41] [35] [40] [32]

    比べる数字の違い 対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 調査表の訓練所員22,518名は、約3万人と同じく訓練所に属していた義勇隊を数えたものとも読め、そう読めば、出所(帰国者の情報による1953年の調査表と、元訓練本部総務部長の証言)も時点(「昭和二十年度末」と終戦当時)も違う、同じ集団についての二つの数字が食い違っていることになるが、調査表がいつの時点の誰を訓練所員として数えたかは答弁から分からないので、どちらが実際に近いかは決められず、『満洲開拓史』の義勇隊関係約5万8千人は、訓練所の訓練生に限ったとは示されておらず、約3万…

  42. 1993年の答弁書によると、調査表の在籍者241,160名の内訳は死亡65,323名、帰還146,330名、未引揚29,507名で、足すと在籍者の数にちょうど一致する

    比較・言い切りの強さ: 言い切り ↩

    根拠の事実 [63] [64] [65] [33]

    計算
  43. 同じ発言には、弔慰金の対象になった義勇隊の死者として「五千人」、まだ処遇のない一般開拓者として「七万五千人」という数字が出てきて、足すと8万人になり、8万人の内訳と読める

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [66] [67] [68]

    計算

    比べる数字の違い 対象の範囲が違う数字を比べている。本文の説明: 同じ発言には、弔慰金の対象になった義勇隊の死者として「五千人」、まだ処遇のない一般開拓者として「七万五千人」という数字が出てきて、足すと8万人になり、8万人の内訳と読める

  44. 川崎寛治委員も1986年に「二十七万のうち八万」を使ったが、出典を示しておらず、吉崎証言とは独立した裏付けとは言えない

    不在・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [69] [66]

  45. 表2 死者の割合(分子と分母の組み合わせごと。分子と分母が同じ資料のものを主な数字とし、範囲・時点の違う資料を交差させたものは感度の確認としてだけ下に載せる。義勇隊の2行は、出典の示されていない約8万6千人を分母にした場合の目安で、義勇隊の死亡率とは確定できない)

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [63] [33] [65] [37] [34] [66] [70] [71] [44] [45]

    計算
    • [63] / [33] = 0.2709(比) (D20)
    • [63] / [37] = 0.2419(比) (D21)
    • [63] / [34] = 0.2903(比) (D22)
    • [66] / [37] = 0.2963(比) (D23)
    • [66] / [33] = 0.3317(比) (D24)
    • [66] / [34] = 0.3556(比) (D25)
    • [63] + [65] = 94,830人 (D26)
    • D26(94,830人) / [33] = 0.3932(比) (D27)
    • [70] / [44] = 0.0357(比) (D41)
    • D47(6,070人) / [44] = 0.0706(比) (D42)
    • [70] + [71] = 6,070人 (D47)

    比べる数字の違い 対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 表2 死者の割合(分子と分母の組み合わせごと。分子と分母が同じ資料のものを主な数字とし、範囲・時点の違う資料を交差させたものは感度の確認としてだけ下に載せる。義勇隊の2行は、出典の示されていない約8万6千人を分母にした場合の目安で、義勇隊の死亡率とは確定できない)

    表の行

  46. 調査表の在籍者に限れば、死者の割合は、確認された死者だけの27.1%から、未引揚者29,507名が全員亡くなっていた場合の39.3%までの範囲にある

    範囲・言い切りの強さ: 条件付き ↩

    根拠の事実 [63] [65] [33]

    計算
    • [63] / [33] = 0.2709(比) (D20)
    • [63] + [65] = 94,830人 (D26)
    • D26(94,830人) / [33] = 0.3932(比) (D27)

    比べる数字の違い 対象の範囲が違う数字を比べている。本文の説明: 調査表の在籍者に限れば、死者の割合は、確認された死者だけの27.1%から、未引揚者29,507名が全員亡くなっていた場合の39.3%までの範囲にある

  47. 表2の感度の4行(24.2%・29.0%・33.2%・35.6%)は、分子か分母を範囲・時点の違う別の資料に替えた場合に割合がどこまで動くかを示すだけで、どれも同じ人々についての死者の割合ではないので、死者の割合の幅には入れない

    範囲・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [63] [37] [34] [66] [33]

    計算

    比べる数字の違い 対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 表2の感度の4行(24.2%・29.0%・33.2%・35.6%)は、分子か分母を範囲・時点の違う別の資料に替えた場合に割合がどこまで動くかを示すだけで、どれも同じ人々についての死者の割合ではないので、死者の割合の幅には入れない

  48. 吉崎参考人の8万人は、確認済みの65,323名と、未引揚者を全員加えた94,830名のあいだにあるので、未引揚者の一部がのちに死亡と判明した分が加わった数字とも読めるが、分母の27万人は調査表の在籍者と範囲が違い、この一致だけでは裏付けにならない

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [66] [63] [65] [37] [33]

    計算

    比べる数字の違い 対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 吉崎参考人の8万人は、確認済みの65,323名と、未引揚者を全員加えた94,830名のあいだにあるので、未引揚者の一部がのちに死亡と判明した分が加わった数字とも読めるが、分母の27万人は調査表の在籍者と範囲が違い、この一致だけでは裏付けにならない

  49. 義勇隊について吉崎参考人の挙げた5千人は、近藤参考人の確実な死亡約3,070名と、行方不明(概数)を足した約6千名のあいだにあり、二つの証言は矛盾しない範囲にある

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [67] [70] [71]

    計算

    比べる数字の違い 対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 義勇隊について吉崎参考人の挙げた5千人は、近藤参考人の確実な死亡約3,070名と、行方不明(概数)を足した約6千名のあいだにあり、二つの証言は矛盾しない範囲にある

  50. 義勇隊の分母の約8万6千人は出典の示されていない総数で、川本委員の言うように終戦までに送り出した総数なら卒業して義勇隊開拓団に移った人も含み、採用者や在籍した者の総数である可能性も残るので、義勇隊の3.6〜7.1%はこの数を分母にした場合の目安にとどまり、調査表の27.1%と並べて、義勇隊の死亡率が低かったとは言えない

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [44] [45] [60] [19]

    計算
    • [70] / [44] = 0.0357(比) (D41)
    • D47(6,070人) / [44] = 0.0706(比) (D42)
    • [70] + [71] = 6,070人 (D47)
    • [63] / [33] = 0.2709(比) (D20)

    比べる数字の違い 対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 義勇隊の分母の約8万6千人は出典の示されていない総数で、川本委員の言うように終戦までに送り出した総数なら卒業して義勇隊開拓団に移った人も含み、採用者や在籍した者の総数である可能性も残るので、義勇隊の3.6〜7.1%はこの数を分母にした場合の目安にとどまり、調査表の27.1%と並べて、義勇隊の死亡率が低かったとは言えない

  51. この約10万人は、調査表の死亡と未引揚の合計94,830名に近いが、質問者は出典を書いておらず、未引揚者は行方不明者と同じ定義ではないので、同じ数字だとは決められない

    比較・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [72] [63] [65]

    計算

    比べる数字の違い 対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: この約10万人は、調査表の死亡と未引揚の合計94,830名に近いが、質問者は出典を書いておらず、未引揚者は行方不明者と同じ定義ではないので、同じ数字だとは決められない

  52. 1945年8月は1937年に始まった20年計画の9年目にあたるので、終戦時の人数を20年分の500万人と比べても計画の進み具合は分からず、比べる相手は当時進んでいた第2期の目標である

    定義・言い切りの強さ: 言い切り ↩

    根拠の事実 [5] [7] [16]

  53. 第2期の目標は第1期と通算で30万戸で、これを人数に直すと、計画の前提の1戸5人とすれば150万人になる

    値・言い切りの強さ: 条件付き ↩

    根拠の事実 [16] [7] [8]

    計算
    • [7] / [8] = 5persons/households (D9)
    • [16] * D9(5persons/households) = 1,500,000人 (D10)
  54. 終戦時の22.5万〜27万人は、1戸5人を前提に直した目標150万人の15〜18%にあたるが、分子は終戦時にいた人数、分母は1946年度末までに入植させる累計の目標なので、これは達成率ではなく規模の目安であり、そのうえ目標の戸数には義勇隊開拓民の分が含まれ、訓練を終えた隊員は「一戶當り」の耕地を分譲されるとされていたので、隊員一人を一戸と数えていたとすれば、その分まで1戸5人で直した150万人は人数の目標として大きすぎ、15〜18%は人…

    比率・言い切りの強さ: 条件付き ↩

    根拠の事実 [34] [37] [16] [17] 同書によれば、3か年の現地訓練を終えた義勇隊員は、原則として壮年の開拓民と同様に政府の補助金を受け、1戸あたり10町歩の耕地と共同用地を分譲されることになっていた。(原典: 満洲開拓民概要(開拓資料 第2輯)。本文に脚注の無い事実) [19]

    計算
    • [16] * D9(5persons/households) = 1,500,000人 (D10)
    • [7] / [8] = 5persons/households (D9)
    • [34] / D10(1,500,000) = 0.15 (D12)
    • [37] / D10(1,500,000) = 0.18 (D14)

    比べる数字の違い 数え方・対象の範囲・定義・時点・期間が違う数字を比べている。本文の説明: 終戦時の22.5万〜27万人は、1戸5人を前提に直した目標150万人の15〜18%にあたるが、分子は終戦時にいた人数、分母は1946年度末までに入植させる累計の目標なので、これは達成率ではなく規模の目安であり、そのうえ目標の戸数には義勇隊開拓民の分が含まれ、訓練を終えた隊員は「一戶當り」の耕地を分譲されるとされていたので、隊員一人を一戸と数えていたとすれば、その分まで1戸5人で直した150万人は人数の目標として大きすぎ、15〜18%は人数で見た割合より低めに出ている可能性があ…

    比率の読み方 達成率ではない

  55. 241,160名と65,323名は、1993年の政府答弁書、1995年の厚生省の答弁、1956年の吉崎証言(65,323名のみ)、2006年の政府答弁書(241,160名のみ)がそれぞれ引いているが、大もとはどれも1953年の外務省調査表一つで、互いに独立した裏付けではない

    不在・言い切りの強さ: 言い切り ↩

    根拠の事実 [33] [63] [38] [39] 同参考人は1953年の外務省調査として、帰着14万6千人、死亡確認65,323人、未引揚26,587…(原典: 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 …。本文に脚注の無い事実)

  56. 「昭和二十年度末」は字義どおりなら1946年3月末で、終戦時と同じ時点の数え方かどうかは、答弁書の文面からは決められない

    定義・言い切りの強さ: 含みを持たせる ↩

    根拠の事実 [33] [38]

  57. 1953年の外務省調査表と1966年の『満洲開拓史』そのものは確認できておらず、戦後の開拓団・義勇隊の人数と死者数は、国会での政府の答弁と参考人・議員の発言、政府の答弁書と質問主意書を通した間接的な数字である

    不在・言い切りの強さ: 言い切り ↩

    根拠の事実 [32] [34] [33] [37] [44] [45] [72]

この記事が使った原典(21件)

この記事を引用するとき

国際情勢・歴史研究所(Institute for Global Affairs and History)「満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数字を比べ直す」第6版、2026年10月29日更新。https://igah.institute/articles/manmo-kaitaku-numbers/

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