原典
満洲開拓農民の概況(満洲開拓叢書 第2輯)
| 発行・掲載 | 拓務省拓務局 |
|---|---|
| 著者・発言者 | 拓務省拓務局 編 |
| 発行日 | 1940-05 |
| 取得日 | 2026年10月27日 |
| URL | https://dl.ndl.go.jp/pid/1441990 |
| ライセンス・利用条件 | パブリックドメイン(NDLデジタルコレクション権利コード pdm/インターネット公開。拓務省等の官公庁刊行物で保護期間満了) |
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| 資料の版(内容のハッシュ) | 908710525d40 |
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引用の位置(ページ・コマ)
| コマ7 | 満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数… 脚注11 「滿蒙開拓靑少年義勇軍を昭和十三年度より每年三萬人を送出し」 |
|---|---|
| コマ8 | 満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数… 脚注3 「昭和十年(康德二年)第四次開拓團迄に入植せる約千八百戶の開拓民の成績良好なるに鑑み」 満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数… 脚注5 「昭和十一年八月廣田内閣に於て大量開拓民送出計畫は重要國策の一として決定し、之に基き二十箇年百萬戶の大量送出計畫を確立し、昭和十二年より其の實施に着手した」 満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数… 脚注6 「本計畫は當時に於ける滿洲國の人口を〓ね三千萬人とし、爾後二十年間に五千萬人に增加するものと推定し」 満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数… 脚注7 「その人口の一割五百萬人百萬戶の開拓民を送出せんとするものである」 満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数… 脚注8 「一割五百萬人百萬戶の開拓民を送出せんとするものである」 満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数… 脚注9 「五箇年を一期として、第一期十萬戶、第二期二十萬戶、第三期三十萬戶、第四期四十萬戶入植の豫定である」 |
| コマ9 | 満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点・数え方をそろえて数… 脚注13 「滿洲開拓政策基本要綱を作成し、同年十二月閣議決定を見たが、之に依れば滿洲移民に關する用語は左記の通り改稱する事になつた」 |
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コマ1
783第満洲〓拓叢書ニ稱滿洲開拓農民の〓況拓務省拓勢局編226ニ0024963000 * 0024963-000 783-226満洲開拓農民の概況拓務省拓務局·編拓務省拓務局昭15 ADE
コマ2
滿洲開拓農民の〓況滿洲開拓叢書第二輯(昭和十五年五月)拓務省拓務局
コマ3
一(三) (二)滿洲開集團開拓地の〓況滿洲開拓農民に對する政府の指導及助成拓農民の募集並訓練滿洲區拓民送出計畫の〓要總滿洲開拓民の區分說開拓民身上關係集團開拓農民の戶數並人口滿洲開拓農民の〓況植地目次六一六三三三
コマ4
富夢九八七(七) (六) (五) (四)集合開拓民の現況(八)分村分〓計畫(二)民間指導及協力機關(三) (一)農業經營開拓團の經營·公共施設共同產業施設滿洲開拓協力協議會滿洲拓植公社滿洲移住協會集團開拓農民の收支計算* x武水圖植入民拓開生滿*〓明盛戦略當國三年日年國位ノ〓本三九三九三七三四三三二〇二〇四宝
コマ5
- -や-〓滿洲移住協會(1滿洲拓植公社11滿洲開拓協力協議會三九〓0圖植入民拓開 州 滿邦蘇黑省安北省〓東安省〓濱牡江町社丹安吉南林京新省政日本省海省化通置位ノ圖本天錦*安東朝省★至熱海省鮮凡·大例渤海海社公權拓洲滿
コマ6
滿洲開拓農民の〓況-總說日滿兩國關係は單に利に依つて結ばれ、害を以て離れるが如き纎細脆弱のものでなく滿洲國皇帝が御説日御歸國後漁發せられたる回鑿訓民詔書の中に「朕日本天皇陛下ト精神一體ノ如シ、爾衆庶等更ニ當ニ仰イテ此ノ意ヲ體シ友邦ト一德一心以テ兩國永久ノ基礎ヲ奠定シ東方道德ノ眞義ヲ發揚則チ大局ノ和平人類ノ福祉必ス致スヘキナリ」と仰せられてある如く、滿洲國皇帝は我天皇陛下の大御を以て御親らの心とせられ、兩國は一德一心眞の不可分關係にあるのである。此の日滿兩國の不可分關係を實質的に强化し、民族協和を實現して王道樂土を建設する爲には我が大和民族が多數此の地に移住定着し滿人其他の民族と相提携し且つ其の中樞たる指導的地位に立ち之を誘導啓發する時始めて其の目的が達成せられ東洋永遠の平和が確保せらるゝに至るのである。殊に昭和十二年七月七日支那事變勃發し、聖戰既に四年、東亞新秩序建設の爲擧國總動員の秋、滿洲國が儼然たる存在であり、豫て執りつゝある處の建設の態度、工作が何等の動搖なく、停頓なく、順調に著々と進捗する事は最も望ましきことであり、我國の爲竝に滿洲國の爲に是非とも斯くあら一
コマ7 引用あり
二ねばならぬ、斯くある爲には滿洲國建國の重要國策たる本事業を更に一層堅實に而も平靜の間に進めて行く毅然たる態度を必要とする。然るに支那事變の擴大に依り忠勇なる將士多數出征し、又一面軍需勞務要員の需給關係等より、滿洲開拓民送出事業も一時見送らるゝにあらずやとの意見もあつたが、現下滿洲國の重要なる地位及其の發展性を確保する爲には之が開拓の重要性は再認識を要求せられ、新東亞建設の據點培養確立のためには開拓民送出は停頓どころか多々益々辨ずべき秋に立至つたのである。從つて所謂成人のみの開拓民にては時局柄送出稍々困難なる事情もあるを以て更に劃期的の計畫たる滿蒙開拓靑少年義勇軍を昭和十三年度より每年三萬人を送出し、成人開拓民と相俟つて大量送出の目的達成に踏み出すに至つたのである(靑少年義勇軍に關しては別に述べる)。然るに現在滿洲國人口三千五百萬の中に我が大和民族が幾人居るかと云へば約八十萬に過ぎず、而も是等の大部分は鐵道沿線に住む官公吏、會社員、鐵道從業員、商工業者等にして移動性多く所謂民族協和の中心たるに不適の場合も多い。滿洲國建國以來我國は政治上、經濟上、軍事上あらゆる援助を行ひ滿洲國を守り立てゝ來ては居るが僅か八十萬位では何としても不足であり、全責任を以てその任務を果すことは出來ない。これには如何しても大地に足を踏みつけて永遠に定着性ある滿洲開拓民に俟たねばならぬ。即ち滿洲國人口の八割を占むる農民と我が農民との固き握手に依つて眞に民族協和の目的が達成せられるのである飜つて我が國內情勢を觀れば年々約百萬人の人口自然增加を示しつゝあるにも拘らず、國土狹少にして天然資源に乏しき爲種々困難なる問題を惹起しつゝある。乃ち之を解決して國民生活の安定を期する爲には社會不安の根源たる人口資源の不均衡を調整するより外に適當なる根本方策はあり得ない。殊に我國農村の窮乏は其の原因が過少耕地(全國の耕地面積は一戶當約一町步、五反步未滿の耕作者は約百九十萬戶にして全農家の三割四分を占む)と過多の人口に存するのである故之が根本的匡救を期する爲には其の過剩人口を海外に發展せしむるの要切なるものがある。輓近各國共各種の障壁を設けて我國の發展を阻んで居るが幸に滿洲國は日滿一體不可分の特殊關係に鑑み我國民の來住を待望して居る次第である。此の滿洲國の要望に應へ優良なる我が國民の大量移住を圖ることは獨り滿洲國の產業開發を促進し、文化の向上、國防の充實に資し所謂東亞新秩序建設の基礎を鞏固ならしむるのみらず、困難なる我が國の各種問題を解決して明朗日本の建設に貢獻する處洵に大なるものあり、滿洲開拓民送出こそ日滿兩國同昌同榮の理想を顯現する一石二鳥の方策と言はねばならぬ。二滿洲開拓民送出計畫の〓要(+)試驗移民時代滿洲事變直後に於いて國民の滿洲移住熱は燎原の火勢にも似て各方面で盛んに論議せらるゝに至つた。然し此等
コマ8 引用あり
四是非の論喧しく全く混沌たるものがける諸實績に囚はれ依然として悲觀說を墨守する者もあり、是非の論喧しく全く混沌たるものがあつた。此間に處して拓務省としては輕卒なる移住熱を抑制するの要を認め、各地方廳にも通牒を發して十分なる調査〓究に基づかずして輕々に渡滿する者を戒むる傍ら、昭和七年初頭、滿洲移住計畫の大綱を草案し、尙又朝野各方面の意〓を參酌する爲め、斯界の學者、實業家等と會して其の根本方策に關して懇談を遂げ、斯くして開拓民計晝の大綱が定まつたのである、が開拓事業成功の條件としては第一、自家勞力を本位として耕作し且つ經濟的に成立する自作農を設立すること。之は要するに、自產自給で行くことで、大地に足を踏みつけて行くと言ふことであり、日本農業精神の發揚でもある。一面又懐手をして滿人に小作等をさせて樂に食つて行かう等の考へでは到底成功しない。汗と膏の開拓民で無ければならぬと云ふことである。第二、相當集團的に入植せしむること。經濟的方面其他〓育、衞生、治安等の點より考慮して少くも二、三百戶集團せしむることが必要である。第三、身體强健、思想堅實なる者を選び且つ入植前內地又は現地に於て特殊の訓練を施すこと。第四、農村疲弊の現狀より見て相當程度の補助金を政府より支出すること。以上の樣な條件で行けば必ず成功するとの信念の下に、開拓に必要なる諸調査、時に昭和七年度以降所謂試驗移民を送出するに至つたのである。(一)二十箇年百萬戶移住計畫三百戶集團せしむることが必要で諸準備を行ふと同かくして昭和七年(大同元年)第一次開拓團を送出して 以來昭和十年(康德二年)第四次開拓團迄に入植せる約千八百戶の開拓民の成績良好なるに鑑み、昭和十一年八月廣田内閣に於て大量開拓民送出計畫は重要國策の一として決定し、之に基き二十箇年百萬戶の大量送出計畫を確立し、昭和十二年より其の實施に着手した。本計畫は當時に於ける滿洲國の人口を〓ね三千萬人とし、爾後二十年間に五千萬人に增加するものと推定し、その人口の一割五百萬人百萬戶の開拓民を送出せんとするものである。其の計畫概要は五箇年を一期として、第一期十萬戶、第二期二十萬戶、第三期三十萬戶、第四期四十萬戶入植の豫定である。(ハ)開拓用地の整備開拓農民に對しては一戶當耕地〓ね十町步を分讓し、其他若干の放牧地、薪炭備林地を團の共有地として準備するものとし、其の用地として農耕地約一千萬町步を必要とし、之に就ては滿洲國に於て整備する。但し昨年度迄は滿洲國政府指導の下に滿洲拓植公社をして之に當らしめた。昭和十三年(康德五年)末迄に整備を了したる土地の總面績は約千二百四十萬町歩である。本用地の整備の方針としては官公有地を先にし、主として未耕地を之に充つる等努めて原住民に惡影響を及ぼさゞる樣考慮してゐる。(c)開拓農民に對する助成開拓農民に對しては日滿兩國政府に於て一戶當り集團
コマ9 引用あり
六拓地に於ける必要なる施設及其の經營を爲す外必要なる資金の低利金融を爲すことになつて居る。三滿洲開拓民の區分從來滿洲開拓民は滿洲移民なる言葉を以て表現されたが昭和十四年一月以來日滿兩國に於て再檢討の結果、滿洲開拓政策基本要綱を作成し、同年十二月閣議決定を見たが、之に依れば滿洲移民に關する用語は左記の通り改稱する事になつた。(改稱(舊稱滿洲開拓民滿洲移民滿洲開拓農民滿洲農業移民滿洲開拓團滿洲移民團滿蒙開拓靑少年義勇軍滿洲靑年移民(但し渡滿後は滿洲開拓靑年義勇隊)而して開拓民の種別は(イ)〓開拓農民(ロ)半農的開拓民(林業、牧畜、漁業等) (ハ)商、工、鑛業其の他の開拓民(ニ)滿蒙開拓靑少年義勇軍(渡滿後は滿洲開拓靑年義勇隊) (ハ) (ニ)に分類することゝなつた。次に移住型態に關しては從來は集團及自由の二つに分れて居たが、集團、集合及分散の三型態に區分さるゝ事になつた。集團開拓農民は從來の農業集團移民の事であつて、將來其の周圍に招致せらるゝ分散開拓民と共に形成せらるべき移住村の中心たらしむる目的を以て少くも二百戶乃至三百戶の構成員を以て集團移住を爲さしむるものにして、移住地に相當の餘裕を置くは勿論、農村に必要なる經濟機關を設立するの外、社會的並文化的施設も完備せしむるを原則とする。集合開拓民は集團開拓民が主として北滿地方に入植し、未開墾地開發を主とせるに反し滿洲國に於ける開拓事業の進展に伴ひ民族協和の中核たる內地人開拓民の大量入植を必要とするに至つたので北滿南滿を通じて交通產業開發上の重要地點に積極的に入植せしむる目的のもとに、昭和十五年度より實施さるに至つたものである、團の構成は三十戶乃至百戶まで政府の助成及補助はほゞ集團開拓民に準ずる事になつて居る。分散開拓民は集團集合開拓民の如く村又は部落構成を目的とせず、分散的に入植するものであるから從つて集團又は集合への緣故開拓民として入植するを本則とする、故に之が補助金も共同施設に對するものは除外せられ個人施設及渡航に對する補助のみが認められるのである。四滿洲開拓農民の募集並訓練從來開拓民は本隊と先遣隊とに分けて募集されて居るが、將來大量送出となれば年中締切期限等集團、集合及分散の三型態に將來大量送出となれば年中締切期限等七
コマ10
八はなく募集し、個人に就いて適材適所主義にて本隊要員又は先遣隊要員と區別するがよいと思ふ。先遣隊は開拓地建設を促進し、其の經營を容易ならしむる爲に本隊の約二割に相當する人員即ち五、六十名を以て之に充て、其の約半數〓ね二十名内外は基幹先遣隊として本隊より約二年前渡滿し、約一箇年現地訓練所又は哈爾濱訓練所に於て開拓團建設の基本訓練を受けたる後開拓地に入つて本隊入植の準備をなすものであるから、本隊より獨身生活の期間も長く從つて比較的年若の而も家族的煩累の少い人が適當である。募集區域は從來は北海道と沖繩縣は除外されたが、昭和十三年度よりは沖繩縣も募集區域に加へられた。但し集合·分散開拓民の慕集は全國道府縣に亘つて居る。應募資格中、年齡は集團·集合及分散開拓民共に徴兵檢査終了後凡そ四十五歲迄を適當とする。然して開拓地建設に必要なる特技(大工、桶屋、指物師、ブリキ屋、鍛工、運轉手)等を有する者も相當數募集する。健康と思想堅實は應募資格中の最も必要なる條件である。集團·集合開拓民の銓衡並訓練は先づ各府縣に於て管內の應募者を集めて人物考査並身體檢査を行ひ、開拓民候補者として適當と認めたる者を假採用者として各府縣の開拓民訓練所にて約一箇月間の訓練を施す、訓練は開拓民の共同生活に對する準備と渡滿後に必要なる精神的鍛練を主なる目的とするものであつて、其の課目の一例を示せば左の通りである。修身皇國精神と滿洲農業開拓民の本義二〇時農學滿洲農業の本質及農產加工二五時體操皇國運動·一〇時二〇時二五時·一〇時武道直心影流の型、銃劍術一〇時〓練自衞動作の演練を主として分隊〓練、中隊〓練一五時食糧〓究滿洲料理の根本概念五時實習農業勤勞精神の鍛練八五時(開墾、鍛工、製炭、其他農耕)課外講義日本精神其他實彈射擊行軍現住所より訓練所迄の往復旅費、訓練中の食費等は拓務省より支給する。先遣隊の現地訓練中の食費、日用品費、醫療費等も支給することになつてゐる。五滿洲開拓農民に對する政府の指導及助成CI指導員の設置(+)集團開拓團の指導員は團長、警備指導員、農事指導員、經理指導員、畜產指導員(獸醫)及び保健指導員(醫師)である。集團開拓團は前述の如く一一〇〇乃至三〇〇戶の集團をなすが、此の團員をして其の嚮ふ處を謬らしめず、成功の彼岸に達せしむる爲には指導員に其の人を得ること頗る重要なる關係上、指導員の人選に關しては細心の注意を拂ひ、萬全を期して居る次第である。從來團長は所謂村長格に相當する人であり、人格識見共に高く衆望を負ふに足る人物を推して居る。第一次より第五次迄は主として專門學校乃至大學卒業の人士が之に當つたが、第六次より開拓團數九一〇時一五時五時八五時中隊〓練其他農耕)先遣隊の現地訓練中の
コマ11
一〇も增加し府縣の事情も考慮して團長にも前述の外從來內地に於ける經驗者、例へば村長、產業組合長、小學校長等の顏觸れが現はれ、特に最近分村分〓計畫の進行に連れ著しく地方名士が應募して之に當るに至つた。農事指導員は內地町村の農會技術員に相當する仕事を爲す人であつて、主として農業學校卒業以上の學力ある者が之に當る。畜產指導員は滿洲家畜には馬の鼻疽、炭疽、牛疫等の病氣多き故主として獸醫を以て之に當ることになつて居る。畜產指導員候補者は渡滿後奉天滿洲國獸疫〓究所にて相當〓究の上入植し指導に當る外家畜の購入配給等も管掌する。次に警備指導員は團の治安關係を双肩に擔ひ、皇軍との連絡、其他兵器彈藥等の整備に當るものにして、主として在〓將校(主に尉官)が之に當る。經理指導員は主として開拓團の會計、經理事務に從事するもので內地農村の產業組合等の會計事務に從事したるが如き人が適當である。保健指導員は退職軍醫、其他一般開業醫等之に當つて居る。指導員應募者は道府縣に於て人物考査並に身體檢査を行ひたる上適格者と認めたる者を指導員候補者として假採用したる後拓務省に推薦せられ、拓務省は之を銓衡の上指導員候補者として採用するものである。指導員候補者は內原に於ける幹部訓練所にて約一箇月の內地訓練を行ひたる上、哈爾濱中央訓練所に入所し數箇月の現地訓練を受け、拓務省囑託として採用せられ夫々各團に配屬することゝなるのである。(日)集合開拓團は旣設開拓團又は都市の近郊に入植すること多く、從つてその衞生上〓育上の施設を容易に利用し得る關係上、指導員は集團開拓團の場合に比べると少く、指導員(團長)一名で保健指導員は六箇集團一名の割當を以て配置される。銓衡及待遇は集團開拓團に準じ、指導員候補者に對する內地訓練は內原滿洲開拓民幹部訓練所にて一箇月行ひ、間行はれる。現地に於ても必要に應じ短期(二)補助金開拓政策基本要綱は補助金に關し日滿兩國の負擔區分を明かにし、日本人開拓民に關しては原則として日本國內に於て要する經費及個別補助は日本國政府共同補助は日滿兩國政府同額負擔し、滿洲國內に於ける施設及助成は滿洲國政府之を負擔することに定められた。(4)集團開拓農民に對する補助金は一戶當り約一、四〇○圓乃至一、五〇〇圓である。其の內容は個別補助と共同補助と滿洲國內に於ける施設補助とに分れる。三百戶集團の場合を例に取れば個別補助は九七〇圓であつて、渡航費の外開田、家屋其他營造物、農具、家畜等に必要なる經費の約三分の一に相當する補助であり、共同補助は一戶當約一八五圓で診療所、團本部施設、共同產業施設、地區內道路、電話架設その他の經費に補助せらるゝものである。滿洲國內に於ける施設補助は約二五六圓で地區外道路費、地區外警備電話架設費その他を指す。之を表示すれば別表の如くである。但右の補助金は入植三箇年に亘つて支出せらるゝものであり
コマ12
然たる境界がある譯ではないが、從來集團農業開拓民の入植地は一言にして言へは主として北滿地方であつた。(一)六入集團開拓地の〓況植大體第二松花江と遼河との分水嶺地方即ち新京と公主嶺との中間地北滿と南滿とは劃補滿洲國內に於ける施設補助共同產業施設補助醫地區內道路費補助療施設補助補(ハ)分散開拓民に對する補助金は渡航費二〇〇圓、個別補助四〇〇圓である。共個滿洲電國內に於ける施設補助話架設費補助共個渡地區道內路費補助醫共同業產施設補助團個區個人補設施助渡航補費助部落事務所補助同別家本家本助療人集合開拓農民一戶當補助金本航集團開拓農民一戶當補助金補補施部同施費別助助族人助費設補補設補補補補分植助助助助 族人助助費地三〇〇一、二六四·三〇圖一、四一一·八四圓戶、分二四〇·三〇二四·〇〇二六·四〇六五·〇〇三八·六〇一五四·〇〇六三〇·〇〇一六〇·〇〇八〇·〇〇二四〇·〇〇八七〇·〇〇二五六·四二四·〇〇二五·六〇六一·一三六四·一七三〇·五二一八五·四二七三〇·〇〇一六〇·〇〇八〇·〇〇二四〇·〇〇九七〇·〇〇ニ〇三三三〇一、五七〇·七八圓戶三五九·六三四·〇〇二六·六〇八五·二〇八三·七五四一·八〇二四一·一五七三〇·〇〇一六〇·〇〇八〇·〇〇二四〇·〇〇九七〇·〇〇分
コマ13
拓民は飽く迄も農耕に從事ずる經濟開拓民である。く觀る人もあるが、戶口數を省別に擧ぐれば次の如くである。はず常に皇軍の後方勤務として連絡事務に當り、いで東安省、の憂なく其の活動を容易ならしむる等、にあらず、昭和七年に入植せる第一次より第八次に至る既設開拓地の配置を地方別に見るに、濱江省、いざと云ふ場合我が身を護る武器である。國防の第一線は我が忠勇なる皇軍が滿洲國軍隊と共に之に當るのであつて、北安省、牡丹江省、間接的國防の貢獻は蓋し鮮少ならざるものがある更に龍江省及吉林省が算へられ、且つ皇軍に食糧馬糧等を供給して皇軍をして後顧開拓民の有する銃器は自ら進んで敵を擊つもの尤も國防の第一線には立たざるも平戰時を問之が入植開拓團數竝に先づ三江省次開く世人動もすれば開拓民は北東滿の國境近く入植するを以て國境警備の爲國防の第一線に立つが如通、沃、耕地であつて其の大半は北滿に存する。(三) (二)分の一以下であり、二月末日約三千八百六十餘萬、の入植適地調査班を組織して候補地に乘り込み氣象、の重要地點に入植せしむるに至つた。多い三江省の如きは十二人に過ぎざる狀況である。の面績一三〇萬方粁(一)濱江、北緯四三度七分位に當る點を東西に繫ぐ線を境とする。く)、入植地を定むる爲には每年春秋二回位に拓務省、治安等を詳細に調査して移住に適するや否やを嚴正に批判して決定することになつてゐる。右の如くである爲從來は北滿地方を主としたが開拓事業の進展に伴ひ漸次全滿に亘り產業交通上十年乃至二十年無肥料でも各種の作物が穫れる。日本內地の農耕地の約五倍に近い。人口稀薄にして入植の餘地多く且つ滿人との間に紛議を惹起することが少いこと。北安、地價が低廉である。未耕地多く且つ肥沃なること。龍江、吉林等の各省地方である。人口稠密と稱する奉天省に於てさへ方粁に一二八·四人であり、(日本內地の三·四倍、開拓民に分讓する土地は一町步三四十圓見當である。一方粁人口僅かに二九·六人であり、滿洲國の可耕面積約三千二百萬町內既耕地約千四百萬町步、表土深く所謂北滿の黑色土で世界の穀倉と云はれ、日本全體の一·九倍に相當する)、其の理由としては滿洲國開拓總局、土壤、從つて入植地としては三江、水質、水量、殘り千七、滿洲拓植公社合同して數名宛日本內地の一八一人に比し七作物狀況、(興安四省及熱河省を除一四總人口昭和十三年十八百萬町步は可耕未東安、衞生狀態、開拓民の最も大體滿洲牡丹江、地味肥交牡吉龍東濱北三省計丹林江安江安江江別省省省省省省省總八九一一六三五云五六七四數第一次第二次第三次第四次第五次第六次第七次第八次戶現| | 1 |一| 1 1一| 1 |一一1 |二1 | 1四四六| | |七四七三四一一一二四三四〇五三六六六三三、戶現三、三七一三六百三一五三、三八三六三一二四소0四九九數割合在同上100ニ七二七七七二七%三人現一五
コマ14
の開拓團叙上の表に明瞭なる如く、の一に過ぎざるが第四次以降は全國に亘り送出せらるゝに至つた。之を開拓團構成の狀態より見るに第一次より第四次迄は府縣聯合型態なるも、(黑臺信濃村-長野縣)第一次より第三次迄の開拓民送出府縣は全國府縣數の四分の一乃至三分竝分村計畫を含む開拓團(黑臺開拓團の南〓村--宮城縣)一七第五次より縣單位出第第第第第第第第第第合第第第第第第第一次彌榮村より第八次先遣隊迄の入植者の現在戶數並人口を表示すれば左表の通りである。(二)集團開拓農民の戶數並人口年年(1)八七六五四三二一八七六五四三二一次次計次次次次次次次次次次次次次出身府縣竝開拓團構成府縣(三)一二、六三一二、〇二二三、九九二四、二〇三一、〇二六四五一二〇四三九七三三六開拓民身上關係五、二七〇二、三九二六八七九三四三七三一九七三三八三〇六四三次次次現在團員數府縣四六四六四五四三八一一六一六一一數五、二七〇二、三九二六八七九三四三七三一九七三三八三〇六四三妻全國(大阪、滋賀、奈良王美味全國全國全國(沖繩なし)全国(東京、六陬、浜神、滋賀、島根、東北東北(六)島(宮城、福大分、沖繩なし地川越)、福岡、沖繩なし豆腐湯方中部關東(辣味名美麗一圓頭、ご飯館又中部は飲食券長野中部(遞) (穀物)府五金門前縣(電話)縣なし名) )九州(熊本、鶴兒島)四國(45)福岡、佐賀、高地總六、〇六五二、九一五六〇二七九三三·三七五三〇円四四八五五六數子は一、七三八現地出生者三三〇供1一九一〇五二三八二〇九三七二四六五府縣名一、二七九七三八三三一一九一五六二〇七八二五三四其他家族(昭和十四年七月一日現在)二五、二四五一〇、二三八二、一六〇五、三五七二、八七四一、二二一一、三〇二一、三五四七三九總人口一六構成員數一戶當平均二·〇一一÷=二·三三·二三·七○·三四八七六ト
コマ15
一八現し、第六次に於ては六割に當る十一開拓團(宮城、山形、福島、長野、新潟、群馬、埼玉、靜岡、廣島、熊本)が縣單位の開拓團より成り、第七次に於ては約七割に當る十五開拓團(宮城二、山形二、長野二、福島、新潟、群馬、埼玉、茨城、廣島、熊本、大分、香川)は縣單位の開拓團にて而も其の中には村單位の開拓團(大日向村-長野縣)及〓單位の開拓團(庄内村-山形縣)も發生するに至つた。更に第六次、第七次に於ける府縣聯合開拓團は〓ね地方別に結合せられてゐる。更に第八次に於ては八割の開拓團(長野九、山形五、宮城三、石川三、埼玉二、新潟二、香川二、秋田二、靑森、東京、福島、熊本、山梨、岩手)は縣單位となり、其の中七開拓團(鹿西·町野·白山- -石川縣、下伊那·蓼科-長野縣、庄内·東村山-山形縣)は〓單位で七開拓團(千代·上久野·讀書·泰阜·富士見-長野、中川-埼玉、栗熊-香川)は分村計畫に基く村單位である。年次各府縣聯合地方單位縣單位〓單位村單位計第第第第第一次乃至第四次五次次次次六八七五三二| 1〇八七五二1一一一一三一八四三| 1 1 -八七| ! 1八七一四五八一二二四〇八九計一O (ロ)軍籍關係は第一次、第二次兩開拓團は所謂武裝開拓民であつて、入植當初に於ては旣に旣〓育在〓軍人其の九十五%を占め、第三次開拓團に於ても尙七五%に上つたが、第四次以降は全國に亘り募集されしのみならず軍籍關係に於ても在〓軍人たることを第一條件とせず募集するに至つた。(ヘ)年齡關係は第一次より第三次に至る開拓國は入植當初に於て二十歲乃至二十五歲の靑年開拓民は其の六五%乃至七十%を占め、其の年齡範圍は第一次は二十一歲より三十五歲迄、第二次は二十歲より三十四歲迄、第三次は三十八歲迄となり、漸次年齡範圍は擴大せられたが分村計畫による開拓者の中には五十餘歲に垂んとする開拓者を見るに至つた。(三)學歷關係は第一次より第三次に至る開拓團は入植當初に於て高等小學校卒業者が其の五十一%乃至五十五%を占め絕對多數にて、尋常小學校卒業程度は二十%乃至三十四%、更に中等學校卒業者は十七%乃至二十八%を占め、第四次以降に於ても大略右に準ずる。特に第一次開拓團に於ては私大卒業者三名を數へ、總括して他の開拓團より遙かに優れてゐる。(六十渡滿前の職業關係は第一次、第二次、第三次各開拓團を通じ農業者は其の九十%以上を示し、農業開拓民たるの實を示して餘りあり、特殊技能者も四%乃至八%を算する。特に第一次開拓團は農村共同社會を建設するに必要なる各種構成分子を包容してゐることは銓衡上の愼重性を推察するに足るのである。第四次以降は各開拓團とも大略右に準じてゐる。C(續柄關係は第一次、第二次、第三次各開拓團に於ては次三男以下が其の六十四%乃至八十六%に上り、其の數は絕對的多數を占むるも戶主又は長男にして渡滿せるもの年次を追ふに從ひ其一九
コマ16
二〇の遞增する傾向を示すは分村計畫の本格的實施と相俟つて首肯せらるゝことである。(四)共同產業施設生產物の加工調製、農具の共同利用等集團經濟の合理化を圖る爲開拓地の事情に應じ諸種の共同產業施設がある。即ち最初は精米、精麥、產同等の共同作業所、味噌醬油若くは製油豆粕の製造等の農產加工場等食糧若くは飼料を補給する程度のものに過ぎないが、漸次建設の進むに從ひ窯業工場(主として煉瓦燒)鍛工場、蹄鐵工場、木工場、自動車部、倉庫等を設け、或は消費部、共濟部を設くる等次第に諸種の設備が完備することとなる。即ち生產物の販賣部、農具其他の利用部、日用品其他農業資材の購買部、或は金融の便を圖る信用部、或は農事の改良發達及指導奬勵に關する事業等內地の產業組合及農會に匹敵する協同組合組織も次第に發達して行くのである。(五)公共施設(+)神社及寺院開拓民が入植すれば自らなる報本反始の念慮によつて各團に神社が建立され、信仰の中心、團結の核心をなしてゐる。第一次の彌榮神社、第二次の千振神社、第三次の瑞穗神社等がそれである。寺院も追々本願寺より布〓師が派遣せられ、第一次より四次迄寺院も建立されてゐる。(日)〓育施設開拓地に於ける日本人小學校は〓育は一般在滿在外指定學校の學則及〓育方針に據るも、その實その實施に當つては特に開拓地の實情に即應せしむる如く留意される。開拓地の學校は日本人學校組合に於て管理經營するのが原則であるが入植後若干期間は開折團に委託經營せしむる事になつてゐる。目下第一次より第六次に至る各開拓團には旣に小學校が開校され、第七次に於ても四團開校され、全部で三十一校(昭和十四年六月現在)となれるも、在外指定學校の指定を受けてゐるのは未だ九校に過ぎない。旣に開校せる全開拓團の小學兒童數は一、九三四名、其の〓員數は九十九名である。兒童は〓ね寄宿舍に收容され土曜、日曜日には父兄に連れられて歸宅する現況である。(ヘ)衞生施設開拓地には差したる風土病は無い。滿洲の風土病は滿人の衞生思想の缺乏より生れ出るものである。滿洲建國以來政府は衛生思想普及に力を入れ、又種々の衛生施設を全土に亘つて設置するに至り、風土病も次第に減少しつゝある。日本人開拓地に對する衛生方面の調査設備は特に考慮せられ、更に水質其他實際的方面に對して滿鐵衛生〓究所、奉天醫科大學等に於て夫々專門的に調査〓究せられてゐる。開拓團の醫療施設としては各團に有資格の醫師が配屬され、病院は入植第一年目より建築され、團費の無料診察投藥を行つて居る。藥局、手術室、入院室等夫々整備されてゐる。尙產婆は各團に數名宛免許狀所有者(主として團員の妻)が居り、助產に當つて居る。開拓團の出生率は內地の約四倍で人口千人に付百二十人の盛況を呈して居る。(六)開拓團の經營二
コマ17
(+)共同經營時代共同經營時代には大體二つの段階がある。先づ開拓地が適地調査の結果日滿兩國間の協議を經て決定すれば團長は指導員、先遣隊員を率ゐて入植年の早春(概ね二月)定められたる開拓地に入植する。先遣隊員の數は先に述べた如く入植總戶數の一割五分乃至二割前後にして、その任務は入植地の踏査、精測、建設計畫大綱の作成、翌年春本隊入植に必要なる家屋、食糧の準備、次年度建築、農耕に必要なる一切の準備を整ふるにある。而して以上の先遣隊入植より本隊入植迄の約一箇年を共同經營時代の第一期とすれば、本隊の入植直後より個人經營に移る迄の期間を第二期と謂ひ得るのである。本隊入植後、團は〓ね其の地域內に於て數個の部落に分散居住を爲し、第一期に於けるが如き團全體の共同經營より漸次部落單位の經營に移る。部落は二〇戶乃至三〇戶位であり、內地の農事實行組合に相當する。而して此の期間には農耕其の他の作業は勿論之を行ふも建設作業中最も重要なる個人家屋の建築は〓ねこの時期に始まり、其の完成に伴ひ漸次家族を招致する。尙此の外學校、病院、農產加工場等の公共施設並產業施設も漸次整備せられる。最近に至りては家族の招致は比較的早期より行はれ、昭和十二年度入植の第六次黑馬劉開拓團の如きは本隊入植の年に先遣隊の多くは其の家族を招致した。殊に分村分〓計畫による團は其の特殊の事情により更に早く、昭和十三年度に入植せる第七次四家房開拓團(長野縣南佐久郡大日向村)は·本隊の入入植と同時に個人家屋の建設並家族招致を行ひ、小學校も入植年末に建設開校した。之を要するに共同經營時代は建設の時代にして、其の第一期に約一箇年、第二期に二箇年乃至三箇年を要す。(一)個人經營時代開拓團入植後三年乃至四年を經過すればこゝに一應團としての基礎が完備せられ、團の經營型態ば漸次個人經營的色彩を取り入れ、團員個人の生活の基礎が安定確立を見るに至る。即ち國員各自は其の家族招致を了へ、個人家屋に入りその生活を個別に營む。而て團の經營は全體的には共同、一部分は部落單位、一部分は個人單位の型態をとるに至る。此の時期には大體建設並土地の整備、分割も完了し農耕に專念し得るを以て農產物の生產加工も自家消費額を優に超過し販賣收入も漸次豐となる。しかして共同經營時代に於ては開拓地經營の基礎を確立する爲滿洲國の特殊法人たる開拓團を設置して團の行政經濟兩部面を一括運營するのであるが、この時期に至ると明確に行政部面の街村と經濟部面の協同組合に分化移行する。(七)農業經營(1)開拓地の自然條件開拓民の營農狀況を述ぶる前に滿洲農業の天然要素に就て略述する。各開拓地は北緯四四-五度乃至四七-八度の間に在り日本に於ては北海道より樺太の地帶團の經營型態即ち國員各自二三
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二四加奈陀とは氣候風土のに相當し、外國に於ては米國、加奈陀に於ける農業地帶に當り、殊に米國、加奈陀とは氣候風土の點に於て酷似して居る。氣候は所謂大陸的氣候で夏冬の寒暑の差甚しく一日中の氣溫の高低の差も甚しい。四月の解氷期以後氣溫は急速に上昇する。殊に作物の最も成長する五、六、七月頃の溫度は日本內地の何れの地方よりも高くなり耕作に非常に有利である。北海道、樺太も滿洲同樣冬期は頗る寒いが春より夏への暖くなり方は滿洲より頗るおくれる。此の點より見て滿洲の農業は靑森、北海道、樺太の農業より遙かに惠まれて居ると言はねばならぬ。又高緯度なる爲一日の日照時間が非常に長い。此の日照と高溫度と相俟つて稻作の如きも同緯度の北海道等に比して遙かに有利であり、北部地方(五十度の愛琿地方)に至る迄栽培相當可能である。作物に大關係ある無霜期間の如きも同緯度に比して長い。例へば大連は二〇七日であるが同緯度の秋田は一七八日、新京は一四五日なるに、旭川は一二七日である。第一次彌榮村は一三〇日位である。降水量は一般に少量で所謂乾燥農業の部に入れてよい。年雨量は〓ね四〇〇粍乃至七〇〇粍である。第一次彌榮村では平均四七〇粍である。其の分配狀態を見ると一般に六、七、八、九の四箇月に多く、特に七、八の兩月が最も多く全雨量の半分位降るのである。次に滿洲の土壤は大部分第四紀古層又は新層に屬し、大體南滿は紅色又は藍色土、北滿は黑色土又は藍色土である。大體弱鹽基性であつて酸性土壤は殆どない。特に滿鐵本線より西部又は蒙古地方にはアルカリ土壤の甚しきものあるも入植地は斯る地方は絕對に避けて選定されるのである。南滿にては有機質及窒素に乏しく加里、燐酸の含量は相當多く、北滿の土壤は三成分共豐富であり、加奈陀に於ける農業地帶に當り、殊に米國、入植地は概ね此の方面に求めらるるのである。(2)營農方針次に開拓民の農業經營に就て述べることとする。先づ開拓民の生活並經濟の基礎たるべき土地であるが、開拓用地の整備に關しては原則として未利用地開發主義に依り之を國營とする。而して開拓用地の管理配分に就ては國家、開拓團及開拓農民間の移行關係を適切に規定する農地制度が近く確立することになつて居るが、農民の土地に對する實感を尊重して土地の永代世襲的確保を圖るを目的とされるのである。現在個人に分割せらるる可耕地〓ね一〇町步(水田約一町步、畑約九町步の割合)の外開拓團の共有地として放牧採草地、薪炭備林として適宜所要の面積を附加せらるることになつて居る。一開拓團の總面積は六千乃至七千町步となる。個人分割の面積は土地の立地的條件、農業組織の型態により一〇町步一率にするものにあらず、多少の增減はあるのである。滿洲開拓農民の農業經營に對する基準に就ては次の如く、指導すべきものと考へる。(4)自作農主義開拓者定着の目的を達せんが爲には先づ第一に名實共に
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二六物の利用、加工部門の擴充に努むべきである。(ヘ)食糧並飼料の自給現地の經濟條件に適應し可及的に食料作物並飼料作物を自作し、經營、並生活上の重要資料の自給に努める。(c)國防資源物資の供給滿洲開拓民の國策性に鑑み自家用を除ける生產物は國防資源として食糧(米及麥)、馬糧(燕麥及野乾草)其他原料(羊毛及羊肉、牛乳、牛肉及牛皮等)を補給し得る樣開拓者の營農も出來るだけ國防國家の產業計畫の線に沿ふて指導する。(30)耕種及養畜其の他開拓地に於ける畑作物として栽培せらる普通作物は小麥、大麥、大豆、玉蜀黍、粟等であるが、最も有望なるは麥類である。其內小麥は其の品質もグルーテンの含量多く加奈陀小麥に匹敵し、麵麴製造に好適して居るが從來豐凶の差が甚しい傾向あり、一般滿洲人間には栽培面積あまり增加せざりしも、北滿克山農事試驗場にて銳意品種改良に努められ優良品種も段々育成せられ居る爲、層有望なる作物になると思ふ。大麥は小麥以上に栽培容易であり、其の反當收量も平均一石三-四斗に及ぶも、從來滿人農家は大麥を馬糧として用ひ、食用とすることを知らなかつた。日本開拓民にとりては粟や玉蜀黍より大麥が主食物として適して居るが故に將來益々栽培增加するものと思d.o其の他燕麥、ライ麥等も頗る能く出來る。以上の如く麥類の栽培に適することは兎角不足勝なる農耕勞力の需給關係を非常に緩和することゝなる。即ち大豆、粟、玉蜀黍等の普通作物が五月上經營、並生活上の重要資料の自給旬に至らざれば栽培出來ざるに麥類は少くも一週間乃至十日間早く、四月二十日頃より播種出來るが故に種期の勞力緩和に役立つのみならず、麥類の中耕除草は二回にて足るを以て最も滿洲農業に於て勞力を要する除草期の勞力を緩和することになる。水稻は水利の便ある平原部であれば北緯五十度迄も栽培可能であるが、陸稻は餘程高溫日照時の多い夏で無いと北滿の栽培は危險である。高粱は南滿の主要作物であり、北滿高緯度では生育あまり良好でない、高粱の代りに麥類が適するから日本人には却つて好都合であるとも云へる。大豆は北滿農民の最も重要視する作物である。世界產額の六割約四千萬石を生產し、作付面積の四〇%乃至五〇%を占むることは珍らしくない。大豆の如き荳科植物の加はることは滿洲粗放農業の地力維持上輪作の一として重要の役割を演じて居るのである。其他特用作物として大麻、靑麻、甜菜等が有望であり、葉煙草も亦能く出來る。尙蘇子、洋麻等も將來有望視せらるゝものである。其他蔬菜は多少の馬糞を施すだけで如何なる種類もよく出來る。トマト、胡瓜、茄子、南瓜、白菜、甘藍、大根、馬鈴薯、牛蒡に至る迄見事なる出來榮である。目下の處北滿開拓地に於ては果樹栽培のみが未だ實現して居ない。次に家畜の問題であるが滿洲の農業經營は家畜無くしては殆と成立しない。所要畜力は役畜として耕地十町步に對し馬二頭を適當
コマ20
來品種改良、るが、ある。傭勞力を必要とする。耕作する爲には夫婦の勞力を十分に發揮し、昭和十三年度集團開拓農民の農作物作付面積主要作物及反當收量家畜家禽頭羽數は別表の通りで其他は內地に匹敵する好成績を示して居る。即ち反當收量の如き年により豐凶あるも大體米、栽培技術の改善に伴ひ單位面積の增收期して待つべきものがある。馬二頭と改良農具を用ひ、而も無肥料、小麥等は內地の半額或は七、粗放經營に依るものであるが、尙全所要勞力の約三割の雇八割程度であ將目二町七反、して〓ね次の如き經過を辿つて居る。從つて先遣隊入植年次より個人經營に移行する期間の作付反別を見るに、實積に徵するに農業所要勞力は水田町當り一〇〇人、ホームスパン、ぐることに努めて居る。爲東亞緬羊協會に於て昭和十二年東安省林口附近龍爪に種羊牧場を設置し濠洲より三千頭の種羊を入れて增產改良に資するに至つた。が砂糖を補ふ有樣である。は牡を賣却し牝は三〇頭となる迄保有飼育し、り、め、開拓農民一戶當の耕作面積は家族構成人員、一日二斗三升五合の乳を出して非常なる好成績を示し、農產加工として精穀、ー」又は「コリデール」種を交配蕃殖せしめて羊毛の改良に資し、次に開拓民の副業として夫々入植地の狀況に應じ主として冬期間の伐木、夫々立派なる製品が出來て居る。ハム、ベーコン等も製造し又第一、第三年目五町、柳條細工、4經營面積及勞力製粉、粉條子、其他山羊、第四年目七町五反、釀造等を行ふ外畜產加工方面に於ては第一次彌榮村の乳牛の如きは蓆子製造、即ち先遣隊時代約九反、鶏、砂糖の給源として甜菜が出來、二、家鴨等若干宛飼養されて居る。家畜、或は馬車、三次等の開拓團に於てはホームスパンの實地講習も終第五年目一〇町步となつて居る。以後餘剩は賣却するものとする。普通畑作五〇人、農具の整備如何によつて增減あるが、病人、トラツク輸送等に從事して副業收入を擧本隊入植第一年目一町一一反、幼兒の需要に應じ其他乳酸飮料を始主として共同飼育を行ひ、尙養蜂可能の爲立派なる蜂蜜蔬菜作二〇〇人である。諸種の建設勞力と相關聯運材、二八製材、緬羊改良の目的の十町步を完全に薪炭製造、第二年從來の仔羊第第第第第第五四四三二一年次次次次次次次永哈城瑞千彌開拓 園農業集團開拓民昭和十三年度農作物作付面積及家畜家禽頭羽數拓 園安達子屯河河穗振榮名作付一、〇〇八·八〇、一、二一七·二五一、九五一·〇〇一、九六一·一〇二、一二六·一三面八一六·六五町積作 付一戶當平約面積三·九九풀어줄四大六풀어8五·五三町牛七四一三五1五三一四十九〓\家緬一、畜四五四〇〇三六六五〇〇000五〇〇羊家一、豚禽104二三六玉大六十六四三六八頭羽三、一一七鶏二六四八五五八六大人一、八五一數安達子屯河河穗振榮名作付一、〇〇八·八〇、一、二一七·二五一、九五一·〇〇一、九六一·一〇二、一二六·一三八一六·六五町面積
コマ21
同同同同同同同同同同同同同同同同第同第七六次次同同同同同同同同同同同同同同同第同同第六次五次次周大六三拉安東十三小太朝元牛八四黑老五海黑東東靜茨福宮熊龍南北六西東黑黒黒朝黑心道三個山平陽寶家石街 福馬頂河五五二二臺人咀道道道道信家靑道股馬海北岡城島城本陽營川河流林拜劉戶頂子川川鎭子子 房屯基堂倫劉村村村村村村村爪崗崗班崗崗子濃臺屯二九·〇〇三〇·五二三六·二〇三八·〇〇七二·二六七八·八五一六·〇〇六三·八三二七·五四三七·五〇二八·九四七二·五四三一·五一三〇·五五四七·一〇三六·〇〇二〇·八〇二三〇·〇〇三九七·四二三九八·一三四〇八·九〇四二五·五〇三七七·〇〇二二七·三九二四四·八〇三七七·五〇四一八·〇〇三五三·三一四三二·五五二七〇·五〇三〇二·八五一一四·三七二五五·〇〇二五五·九〇四二七·一五一、〇一八·二〇七六一·六八一、一二二·五〇一0 0 0〇·一七〇·〇五〇·一七〇·〇三〇〇六五二·二六〇四c·o·R室四10 caos〇·二一〇·〇円一·七〇一·八七〇·一一一〇八一八番一·一八一·三三一〇円一·二五一·三一·三七二·〇七二〇〇〇一·二〇一·四二〇〇九む一·〇三〇·七三一·二二一·三一一·四三四·九四三·八〇三·五〇三三四三七六三二二四四| 1二10三四五六八二九九一四一八四六八六七里四三四六五一三二四七七五六一山田九二三一三二六八九〇1 | | | | 1 H | 1 | 10°七八一二五一尺| 1九六九九1九〇一三五一三一000 100 300四大夫三一三〓実六三三三三二三一二三〇三八三二三七九三三一二五101七大六〓二八犬三五八二000六二六四八四〇四六圈四六七〇二五一二三二四五三〇へ、ㅎ|二五一〇cog四二七二、五〇〇八八大七、四六〇一、三〇〇三|三六九、六〇〇三元二六一三〇| |二〇一〇00 | !三〇| | | | | |九二000÷| 1三一〇一四七·1 1 1四五1五九|五四五三三ニ三|三八二六三〇一三一ニ三二八二三
コマ22
三二(00)三五三八二六三六、八〇四第同同同同合七次中北〓七四和學田鎭和屯力三六·一〇一五·七〇四六·八〇二八·七〇二三·四九一八、六五八·〇二〇·四cock〇·二三〇·一二〇·三二六五〇三六七|三、一〇四| | | 1 |二七六000 | | 1四八、一九二1 | 1 1 1交八虎合計當六、allo反石米一·八一反當收量石米大豆小麥大麥燕麥高粱栗稗馬鈴薯質葉煙草一·八一〇·八二〇·五四〇·八三一·一九〇·九三一·〇二一·五四二三四三三(八)集團開拓農民の收支計算開拓農民の農業經營の收支に關しては種々論議せらるゝ處であるが、苟くも國策開拓民たる以上經濟上にも立派に成立する樣構成せられて居る。唯入植當初より必ず利益を擧ぐる如く經營することは無理である。元來滿洲開拓農民は所謂「出稼ぎ移民」にあらず、永久に子孫を植付けて安住の地を確立せんとするものであるが故に一、二年の成功を爭ふもので無い、豐穣肥沃なる土地一〇町步を分讓せられ世界に優れたる農業技術を有する我が農民たる以上、そこに農民としての無上の光明が前途に横たはつて居るのである。即ち農民本來の使命に歸つて眞に土に親しむ農民魂を發揮して營々自給自足より踏み出すべきである。高粱〇·九三栗一·〇二稗一·五四馬鈴薯質二三四葉煙草三三滿洲農業は畑作本位の寒地農業である。日本內地の水田本位とは全然某の趣を異にする。斯る土地に於て農業を營み而も最初の入植者として失敗無からしむる爲には先づ滿洲本來農法の模倣に依るを第一義とする。即ち最初の二、三年は少くも滿洲農業の模倣時代である。水稻、大豆、麥作等日本人の從來馴れたる作物を主とし、其他は模倣による。例へば牛馬の使役の如きは滿人は世界優秀の技術を有し彼に學ぶべき處多大である。此の模倣時代を過ぐれば在來の方法を以てしても滿人並には出來るが、日本人の勝れたる智能技術を發揮して品種改良、農耕法の改善が次第に實現さるゝに至り所謂基礎建設時代となり、此の期間が二、三年續いて愈々基礎確立時代となると觀るべきである。未だ大部分の開拓團は模倣時代を脫して居ない。然し乍ら最少の支出を以て最大の收入を擧ぐるは農業經營の要諦なるを以て與へられたる土地を合理的に速かに完全に利用せしむる爲、北海道農法等を參酌するの要あるを認め、十四年度北海道より一〇戶の指導農家と九〇戶の實驗農家を募集して北滿の開拓團に入植せしめて指導實驗に當らしむる等夫々農家經營の檢討を行ふと共に、滿洲國の大陸科學綜合〓究機關の擴充整備により益々其の合理化を圖ることになつて居る。扨て開拓農民の現在に於ける農耕面積と收支の關係を觀るに、家族構成を夫婦に子供二人、消費人員大人換算三人と見て、先づ食糧の自給の點より考察するに、白米消費一人當少し餘裕を見て年一石六斗とし、之を生產する水田約一反三畝を要し、三人にて三反九畝となる。其の他味噌、醤油
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三四七反五畝、蔬菜二反五畝、計十町步)として約七反三畝を必要とする。次に家畜の飼料生產として馬、牛、豚等成畜四頭と見て一頭當七反步、計二町八反を必要とする。以上食糧、種苗、合計四町六反七畝が自家消費量として必要となるのである。從つて十町步を完全に耕作するとして以上自家消費面積を控除したる五町三反三畝が販賣に供せらるゝ作物となるのである。昭和十四年九、十月頃の滿洲國內時價に就て見る時は白米石三十七圓、雜穀石約十五圓として販賣總價格約一、二〇〇圓となる。即ち十町步耕作の場合現金收入は作物收入約一、二〇○圓の外養畜收入、副業收入等を合せ約一、七〇〇圓となる。次に現金支出を見るに、營農費、家計費、街村費、組合費等で合計約一、000圓近くなり、差引殘七〇〇圓位となる。其の他建設完了迄には建設費及流通資金、土地代、利息等を合せ相當額の借入を要するがその年賦金を償還して尙三-四〇○圓の現金が殘る計算となる。但し右は水田一町、畑作は普通作物のみを考へたる場合にして將來、特用作物、酪農、農產加工等を加味するに至れば收入は尙增加することになる。七集合開拓民の現况自由移民は昭和十五年度以降開拓政策基本要綱により集合分散の二型態に區分せられるが旣に自由移民として入植せるものゝ現況につき概說すれば左の如くである。滿洲拓植公社の前身たる滿洲拓植株式會社の設立以前に於ては僅かに天照村(現一棵樹開拓組合)天理村の外鐵道自警村を數へるに留まりしも國策開拓民事業の實施以來集合開拓民の計畫俄に多きを加へ、之を區別するときは農業開拓民、鐵道自警村開拓民、林業開拓民、漁業開拓民、煙草開拓民等となる。以下諸種の觀點より所謂自由移民につき其の〓況を摘記する。、(1)戶ロ關係昭和十四年十二月現在に於ける各種集合開拓民の戶口狀態並に開拓團構成戶數を表示せば次の如くであつて、之を集團開拓民に比するときは一般に其の集團構成戶數の少きを知る。種別團體數戶數人口一團體構成戶數林鐵農漁煙業道自業業草計開警村開開開拓民開拓民拓民拓民拓民五二三五二一六八七HINHI四三四一、五〇七一〇一四八二、四三一一、五五五一、二八五三、六四五一〇四八七六、九八二二九-一二八一〇-三〇五-八三(2)地方別入植團體數及戶口數集合開拓民入植地の地方別分布を省別に見るに吉林省、濱江省、牡丹江省に最も多く、其の過半數が入植し、又集團開拓民の北滿に偏するに比し之は全滿に散在せる點に其の特色がある。三五
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三六(3.)團體構成關係集合開拓民構成狀態を出身縣、除隊兵を標準として分類すれば次の如くである。(+)同縣出身團體林業開拓民(三)新秋田、三岔口(秋田)仙洞(靑森)鐵道自警村開拓民(五)泡子(長野)四家房(宮城)白家、訥河(山形)五家房(群馬)農業開拓民(三四)白山子、江密峰、雙河鎭、水曲柳(長野)東豐(靑森)昭和松陰村(山口)湯山城(佐賀)高千穗(宮崎)大黑山(大分)額穆、杜家、蒲原、宮本(新潟)四合屯、平安(高知)十勝、八紘(北海道)三河東〓、三河西〓(福岡)隼人村(鹿兒島)敷島、靑山、阿菊(熊本)鐵驅、杜陵(岩手)舒蘭(福島)啓東瑞光、大谷(山形)四順堂(福井)公主嶺、群上(岐阜)敦化(廣島)和歌山(和歌山)蘭嶺(岡山) (一)除隊兵を中心とする團體鐵道自警村開拓民女兒河、黑山頭、口前、綏化、泰安、白城子、蚊河、小城、山市、雙城堡、安達、龍鎭、柴岡。農業開拓民大黑山、隼人村、呼倫貝爾。(4)農營關係作付面積(昭和十三年度)綏化、泰安、白城子、蚊河、小城、山市、雙城堡、農業開拓民作總付數一、一二四二、四九九七、二九八面一積當種別戶林業開拓民一、一二四二·九鐵道自警村開拓民二、四九九六·七農業開拓民七、二九八五·二漁業開拓民煙草開拓民六三七五·四集合開拓民は〓して少數の集團なるを以て 小學校又は病院の如きもの成る可く附近に於ける旣設#のものを利用する建前上多くは獨立の施設を經營するに至らざるも、其の內に在つて病院を備ふものに天理村、三岔口、仙洞あり、小學校を開設せるものは一八校ありて、其の內六校は在外指定學校である。小學兒童數は七九二名、職員は三三名である。八分村分〓計畫滿洲開拓農民の大量送出を容易ならしむる目的の下に計畫的、組織的に團體移住の促進を圖り、併て農村の恒久的更生計畫の實施を促進する爲に分村分〓計畫が樹立さるゝに至つた。我國現在農家戶數五百五十餘萬戶、一戶當耕作面積一町八畝に過ぎず。農林省の調査によれば普通農村組織に於て經濟上成立し得べき所謂適正農家は平均一戶當一町七反を要すと云ふ。然らば現在の農家戶數三七二·九六·七五·二村拓
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三八より約二百萬戶を減すれば一戶當耕地一町七反に增加する理である。此の理を各町村に及ぼし各町村の現狀調査に基き夫々批判檢討をなして該町村內の收容可能戶數を算出し、餘剩戶數を滿洲開拓民として送出せんとするものである。即ち分村計畫は移住計畫及開拓民送出後の農村計畫を樹立するものとし其の實施に當りては農業生產に於ける全面的改良刷新の方策を講じて生產を確保すると共に農家の生活安定並に向上を期することを目標とする。分村計畫樹立上注意することを羅列すれば〓ね左の通りである。(一)分村戶數は適正經營農家を標準として村の特殊事情を考慮して定むべきも一村より尠くも三十戶程度以上を送出せしむる樣指導すること。(二)分村計畫に依り移住する者は成るべく町村內の各階級の適格者を網羅する樣考慮すると共に分村計畫に依る開拓團の指導者は成るべく其の地方出身者中より選定するものとする。(三)開拓民の負債整理に就ては其の移住計畫を促進する爲町村、負債整理委員會(假稱)等の活動を促進し負債整理計畫の樹立を指導せしむると共に負債の條件緩和及有利なる財產處分の斡旋、低利資金融通幹旋等に當らしむるものとする。(二〓)開拓民の未招致家族の扶養に關しては町村及開拓民後援〓體をして隣保共助の精神に基き適當なる授產、勤勞奉仕等に就て有効適切なる措置を講ずると共に扶養費の貸付又は給與に對しても考慮する。(五)開拓民の土地、建物、家畜及其他の財產は成るべく自由處分を避け、町村の更生計畫に基き町村、產業組合、農會、農事實行組合等に於て買收、管理又は處分を爲すものとする。(八)開拓民送出後の町村は農家戶數を增加せしめざる如く努むると共に土地の配分及利用の適正、土地細分の防止、勞力畜力器具機械の合理的利用、技術の改良、協同組織の强化等に依り農業經營の合理化を圖るものとする。(+)分村計畫に關聯して町村併合整理に關しても考究するものとする。分村計畫樹立町村が數箇村聯合して送出計畫を樹立せるものを分〓計畫と云ふ。從つて分〓計畫は二、三箇村から廣きは一郡内に及ぶ現況である。分村計畫の濫觴は宮城縣遠田郡南〓村で昭和十一年度より着手した。爾來第七次に長野縣大日向村、山形縣庄內〓(分〓による)の二村、第八次に入り長野縣富士見村、川踏村、泰早村、上久堅村、千代村、讀書村、蓼科〓、下伊那〓の六分村二分〓を始めとし、埼玉縣中川村、香川縣栗熊村、石川縣の鹿西〓、町野〓、白山郷、新潟縣荒川〓、山形縣庄内〓、村山〓、秋田縣男鹿〓と合計八分村九分〓を數ふるに至つた。第九次に於では目下確定して居るものが分村一二、分〓三八、計五○である。分村計畫に關しては農林省も之を助成することゝなり、十三年度に於て全國に亘り二七二町村を分村計畫樹立指定村に選定し、十四年度に於ては更に之を四五〇町村に增加指定をなして之が指導誘抜に當つて居る。九民間指導及協力機關(
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四〇日本內地に於ける機關として滿洲移住協會がある。本協會は昭和十一年滿洲開拓事業の統一ある發展を助成し、併せて滿洲產業開發に資する爲設立せられ、更に昭和十二年四月財團法人に改組し、內部組織も整備し、總務、企畫、宣傳、訓練、斡旋の五部を設け、民間唯一の滿洲開拓關係團體として拓務省と密接不離の關係の下に、專ら開拓事業の促進並に後援、開拓事業に關する調査、宣傳及紹介、開拓民の斡旋、宿泊所の設立及び經營等を行つて居る。(二)滿洲拓植公社滿洲現地に於ける機關として滿洲拓植公社がある。康德二年(昭和十年)滿洲國法令に依る滿洲拓植株式會社が日滿兩國の協定に依り資本金千五百萬圓を以て我開拓農民の移住助成並移住地確保の目的を以て新京に設立せられ、(一)移住用地の取得、管理及分讓(二)移住者に必要なる施設(三)移住者に必要なる金融(四)前各號に附帶する事業を行ひ滿洲開拓民に對し現地機關として多大の貢献を爲して來たのであるが、昭和十一年八月大量開拓民送出が重要國策として決定し愈々開拓事業の擴大を來すに伴ひ、それに對應すべく從來の滿洲拓植株式會社を解體して昭和十二年八月二日(康德四年)日滿兩國の協定に基く特殊法人たる株式會社を設立し之を滿洲拓植公社と呼び、資本金五千萬圓に增資せられた。その組織は株式會社の型をとつて居るが飽く迄「公社」であつて「商社」ではない。即ち公益を主眼とする開拓國策遂行の機關である。其の業務は從來の滿拓と同樣であるが建設部、經營部、管理部及靑年義勇隊訓練部を設け、現地唯一の實行機關として開拓團建設に貢獻する處大なるものがある。現地(三)滿洲開拓協力協議會滿洲開拓事業の完遂を期するには國民各層の總力的參畫と强力なる支持を背景とし 係係各方面の緊密なる連絡協調を必要とするため本年二月滿洲開拓協力協議會が創設された。本協議會には滿洲開拓に密接なる關係を有する各種團體二十團體が加盟して組織され、事務所は拓務省內に置れる。加盟各團體及關係官廳は互に密接な連絡を保ちそれ〓〓の立場に於て滿洲開拓政策の主旨の普及徹底、開拓民、靑少年義勇軍の募集訓練送出等に對する協力、援助、女子に對する開拓思想の鼓吹、未招致家族の援護激勵其の他につき協力するものであり、近く設置を見るべき各道府縣協力協議會に對しては本協議會は指導聯絡の立場に立つものである。四
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版・追記・訂正の履歴
| 日時 | 内容 |
|---|---|
| 2026年10月29日 05:09 | 記事「満蒙開拓団は何人送られ、何人が帰れなかったか ― 単位・時点」(第6版)がこの原典を引用 |
| 2026年10月27日 23:07 | 資料の書誌を更新 内容のハッシュ 908710525d40 |
| 2026年10月27日 19:06 | 原典を取得 |